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2012年4月19日 (木) 08:50時点における版

ABCD問題(ABCDもんだい)とは、1982年日本の新左翼日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)メンバーが告発された強かん事件およびその後の組織的経過の総称である。当事者間では「組織内女性差別問題」とも呼ばれている。

事件の概要

1982年8月、三里塚闘争のため三里塚芝山連合空港反対同盟が現地に設けた「労農合宿所」で、第四インターから派遣されていた常駐者の男性活動家が女性利用者を強かんしようとする事件が発生した。被害者は直ちに第四インター指導部に告発した。当初、指導部は男性活動家の個人的不祥事という認識でこの問題を捉え、男性活動家に自己批判書を書かせて事態の収束を図ろうとした。しかしこの自己批判書は、組織に「泥を塗った」ことに対する謝罪のみが書き連ねており、肝心の被害者に対する謝罪がなかったことから、被害者からは「女を切り捨てた形で闘っていきたいのなら勝手にやればいいと思う。ただ、その場合には、もう『人間の解放』などとは言わないでほしい」と決別を宣告された。

他の女性活動家からも、「この男性活動家の他にも強かんをした者がいる」という告発が相次いだ。最終的に強かんおよび強かん未遂を告発された男性活動家4人を除名することになった。「ABCD」とは、除名された男性活動家4人のことである。なお、強かんした男性活動家の自己批判の上の運動への復帰を提案する内容の声明文『三里塚現闘団員四名の除名とわれわれの自己批判』であった[1]

多くの女性活動家は、この事件をきっかけにジェンダーの問題について、第四インター指導部が真剣に取り組むことを望んでいた。第四インターは「女性の望まない性的行為はすべて強かんである」と規定したが、中核派からのテロ襲撃を受けたことなどで、この議論は事実上の棚上げ状態となった。一方で、同時期に労働運動などをめぐる路線について、深刻な組織内対立が発生し、第四インターの組織は分裂する。「女性差別問題」よりも路線論争に熱中する「男」の活動家たちに、女性活動家は組織に絶望し、相次いで離脱することになった。

1987年には、女性メンバー自身の自治による組織内の独自結集を目指した「第四インター・女性解放グループ」が結成される。これへの対応をめぐって組織はさらに紛糾し、「女性解放グループ」の自治を認めなかった「労働者の旗」グループ(のちの第4インターナショナル日本支部再建準備グループ-MELT)は、日本支部から離脱する(「労働者の旗」グループにも女性メンバーは参加している)。

1991年、第四インターナショナル統一書記局は、日本支部の現状は「第四インターナショナルの支部」たる資格を欠如しているとし、日本支部の資格を剥奪した。

支部の資格を剥奪された旧日本支部は日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)と改名し、現在に至っている。

JRCLは、党として女性差別問題を1996年にあらためて、「自己批判と総括」を発表した(下記リンク参照)。そして、ポルノ・買春問題研究会(APP研究会)との関わりを一定持っているようだ。そのことで、一部の新左翼的な思想を持った個人活動家による成年コミック・表現規制反対論者が、JRCLを新左翼党派の中で反ポルノの急先鋒と見なして、批判している。

ABCD問題関連文書

脚注

  1. ^ 三里塚現闘団員四名の除名とわれわれの自己批判 - 日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)中央委員会
    四名は、それぞれプロレタリアートの一員としての労働と生活と闘争をつくり上げようとするところから、自己批判にむけた再出発を開始することを希望し、われわれもまたそのことを要求している。今後においても、われわれは彼らとの対論を続け、彼らが自己批判をなしとげ第四インターナショナルの旗の下に再び立つために闘争する。

参考文献

  • かねこさち『新左翼組織と女性差別』(近藤和子編『性幻想を語る』三一書房、1998年に所収)

関連項目