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「頼助 (仏師)」の版間の差分

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'''頼助'''(らいじょ、[[天喜]]2年([[1054年]]) - [[元永]]2年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]([[1119年]][[7月18日]]))は、[[平安時代]]後期に活躍した[[奈良仏師]]。[[定朝]]の孫で[[覚助]]の実子または直系の弟子として多数の造像に携わる。[[興福寺]]を中心に主に[[奈良]]で活躍したため、頼助の系統は'''御寺仏師'''、'''奈良仏師'''と呼ばれ、[[運慶]]ら優れた仏師を輩出した。
'''頼助'''(らいじょ、[[天喜]]2年([[1054年]]) - [[元永]]2年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]([[1119年]][[7月18日]]))は、[[平安時代]]後期に活躍した[[奈良仏師]]。[[定朝]]の孫で[[覚助]]の実子または直系の弟子として多数の造像に携わる。[[興福寺]]を中心に主に[[奈良]]で活躍したため、頼助の系統は'''御寺仏師'''、'''奈良仏師'''と呼ばれ、[[運慶]]ら優れた仏師を輩出した。子に[[金剛峯寺]]所蔵「絹本著色両界曼荼羅図」(血曼荼羅)を描いた[[常明]]がいる<ref name=kodansha>{{cite web|url=http://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E6%98%8E |title=【常明(じょうみょう)】|publisher=デジタル版 日本人名大辞典+Plus|language=日本語|date=2009-01|accessdate=2012-04-17}}</ref>


[[ファイル:Kofukuji03s3200.jpg|thumb|頼助が活躍した興福寺の三重塔]]
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*[[1110年]]([[天永]]元年)、再び興福寺寺諸像を修理を指導。
*[[1110年]]([[天永]]元年)、再び興福寺寺諸像を修理を指導。
*[[1116年]]([[永久 (元号)|永久]]4年)、興福寺と関係が深い[[春日大社]][[春日大社五重塔|西塔]]の仏像を造立する。
*[[1116年]]([[永久 (元号)|永久]]4年)、興福寺と関係が深い[[春日大社]][[春日大社五重塔|西塔]]の仏像を造立する。

== 出典 ==
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==参考文献==
==参考文献==

2012年4月17日 (火) 00:33時点における版

頼助(らいじょ、天喜2年(1054年) - 元永2年6月9日1119年7月18日))は、平安時代後期に活躍した奈良仏師定朝の孫で覚助の実子または直系の弟子として多数の造像に携わる。興福寺を中心に主に奈良で活躍したため、頼助の系統は御寺仏師奈良仏師と呼ばれ、運慶ら優れた仏師を輩出した。子に金剛峯寺所蔵「絹本著色両界曼荼羅図」(血曼荼羅)を描いた常明がいる[1]

頼助が活躍した興福寺の三重塔

経歴

出典

  1. ^ 【常明(じょうみょう)】”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus (2009年1月). 2012年4月17日閲覧。

参考文献

関連項目

  • 御寺仏師 - 1096年(永長元年)に永長地震で被災した興福寺諸像の復興と修理に当たって記銘された。
  • 内山永久寺 - 興福寺と並ぶ奈良仏師の拠点。
  • 白河法皇呪咀事件 - 1113年(永久元年)、興福寺大衆が呪咀のために不空羂索観音の造像を頼助に依頼したと疑われたが頼助は無罪となっている。
  • 善派 - 奈良仏師の後裔
  • 慶派 - 奈良仏師の後裔
  • 勢増(弟子)仁増(勢増の弟子)