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'''中山 照守'''(なかやま てるもり、[[元亀]]元年([[1570年]]) - [[寛永]]11年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]([[1634年]][[2月20日]])) は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[江戸幕府]][[旗本]][[旗本寄合席|寄合]]。[[中山家範]]の嫡男。[[諱]]は家守とも。[[通称]]は助六郎、勘解由。弟に[[水戸藩]][[附家老]]の[[中山信吉]]。子に[[中山直定]]、[[中山直範]]、[[中山重良]]。
'''中山 照守'''(なかやま てるもり、[[元亀]]元年([[1570年]]) - [[寛永]]11年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]([[1634年]][[2月20日]])) は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[江戸幕府]][[旗本]][[旗本寄合席|寄合]]。[[中山家範]]の嫡男。[[諱]]は家守とも。[[通称]]は助六郎、勘解由。弟に[[水戸藩]][[附家老]]の[[中山信吉]]。子に[[中山直定]]、[[中山直範]]、[[中山重良]]。


初め父家範とともに[[北条氏照]]に仕えた。[[天正]]18年([[1590年]])[[小田原の役]]における[[八王子城]]の戦いで父は討ち死にしたため、照守は[[武蔵国|武蔵]]加治に潜伏していたが、同年8月、父の最期に感銘した[[徳川家康]]に弟・[[中山信吉|信吉]]とともに召抱えられ、300石を与えられて[[徳川秀忠]]の使番に任じられる。
初め父家範とともに[[北条氏照]]に仕えた。[[天正]]18年([[1590年]])[[小田原征伐]]における[[八王子城]]の戦いで父は討ち死にしたため、照守は[[武蔵国|武蔵]]加治に潜伏していたが、同年8月、父の最期に感銘した[[徳川家康]]に弟・[[中山信吉|信吉]]とともに召抱えられ、300石を与えられて[[徳川秀忠]]の使番に任じられる。


[[慶長]]5年([[1600年]])、秀忠の軍に従い、[[上田合戦]]にて[[上田七本槍]]に数えられる働きをするが、軍律違反であり叱責を受け、[[真田信之]]お預けとなって[[上野国|上野]][[吾妻郡]]に閑居するが、翌年に許され本領を安堵される。照守は高麗八条流[[馬術]]の使い手であったため、秀忠に馬術を教授し、のちに3代将軍[[徳川家光]]にも手ほどきしている。慶長14年([[1614年]])、[[大坂の]]では子の直定とともに参戦し、得意の馬術で戦功を挙げて500石を加増された。後に1000石加増され、[[目付]]に転じられて[[寛永]]3年4月に[[肥後国]]熊本に巡察として赴く。[[寛永]]9年([[1632年]])に鑓奉行となり、最終的に3500石の[[旗本寄合席|大身旗本]]となる。
[[慶長]]5年([[1600年]])、秀忠の軍に従い、[[上田合戦]]にて[[上田七本槍]]に数えられる働きをするが、軍律違反であり叱責を受け、[[真田信之]]お預けとなって[[上野国|上野]][[吾妻郡]]に閑居するが、翌年に許され本領を安堵される。照守は高麗八条流[[馬術]]の使い手であったため、秀忠に馬術を教授し、のちに3代将軍[[徳川家光]]にも手ほどきしている。慶長14年([[1614年]])、[[大坂の]]では子の直定とともに参戦し、得意の馬術で戦功を挙げて500石を加増された。後に1000石加増され、[[目付]]に転じられて[[寛永]]3年4月に[[肥後国]]熊本に巡察として赴く。[[寛永]]9年([[1632年]])に鑓奉行となり、最終的に3500石の[[旗本寄合席|大身旗本]]となる。


[[寛永]]11年([[1634年]])に死去。享年65。家督は、嫡男の直定が継ぐ。墓所は、[[菩提寺]]の[[能仁寺 (飯能市)|能仁寺]]。法名は、「無相院殿可山宗印大居士」。
[[寛永]]11年([[1634年]])に死去。享年65。家督は、嫡男の直定が継ぐ。墓所は、[[菩提寺]]の[[能仁寺 (飯能市)|能仁寺]]。法名は、「無相院殿可山宗印大居士」。

2012年4月15日 (日) 16:20時点における版

中山 照守(なかやま てるもり、元亀元年(1570年) - 寛永11年1月23日1634年2月20日)) は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将江戸幕府旗本寄合中山家範の嫡男。は家守とも。通称は助六郎、勘解由。弟に水戸藩附家老中山信吉。子に中山直定中山直範中山重良

初め父家範とともに北条氏照に仕えた。天正18年(1590年小田原征伐における八王子城の戦いで父は討ち死にしたため、照守は武蔵加治に潜伏していたが、同年8月、父の最期に感銘した徳川家康に弟・信吉とともに召抱えられ、300石を与えられて徳川秀忠の使番に任じられる。

慶長5年(1600年)、秀忠の軍に従い、上田合戦にて上田七本槍に数えられる働きをするが、軍律違反であり叱責を受け、真田信之お預けとなって上野吾妻郡に閑居するが、翌年に許され本領を安堵される。照守は高麗八条流馬術の使い手であったため、秀忠に馬術を教授し、のちに3代将軍徳川家光にも手ほどきしている。慶長14年(1614年)、大坂の陣では子の直定とともに参戦し、得意の馬術で戦功を挙げて500石を加増された。後に1000石加増され、目付に転じられて寛永3年4月に肥後国熊本に巡察として赴く。寛永9年(1632年)に鑓奉行となり、最終的に3500石の大身旗本となる。

寛永11年(1634年)に死去。享年65。家督は、嫡男の直定が継ぐ。墓所は、菩提寺能仁寺。法名は、「無相院殿可山宗印大居士」。