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2011年12月6日 (火) 08:30時点における版

西暦120年の属州ガリア・アクィタニア

ガリア・アクィタニアラテン語: Gallia Aquitania、ガッリア・アクィタニア)とはローマ帝国属州のひとつ。かつてのアクィタニア地方であり、現在のフランス北西部アキテーヌ地方に該当する。東方にガリア・ルグドゥネンシス、南方にガリア・ナルボネンシス、西方にヒスパニア・タッラコネンシスの各属州と接していた。

概要

もともとはケルト人(とくにガリア人)が住み、南方のローマとは違う文化圏であった。そこにガイウス・ユリウス・カエサルが侵攻、ローマの属州とする(ガリア戦争)。アウグストゥスの治世に皇帝属州となる。皇帝の命を受けたプロプラエトルは軍隊を従えず、任地に赴いた。アクィタニア属州の州都はメディオラヌム・サントヌム(Mediolanum Santonum、現:サント)に置かれた。

紀元前58年の属州ガリア・アクィタニア

ディオクレティアヌスの治世にはガリア・アクィタニアは、アクィタニア・プリマ(Aquitania Prima)、アクィタニア・セクンダ(Aquitania Secunda)、アクィタニア・テルティア(Aquitania Tertia)の3つに分割された。

418年、ローマ皇帝ホノリウス西ゴート人を「友邦者」として扱い、この地を永住の地として与える。そしてこれが西ゴート王国の始まりとなった。

西ローマ帝国滅亡後

そして西ローマ帝国滅亡後に西ゴート族は彼等はトロサ(現在のトゥールーズ)を拠点とし、ピレネー山脈を越えてヒスパニアに侵攻する。しかし507年にはフランク族に押される。629年メロヴィング朝クロタール2世が死去するとフランク王国を息子で分割。西フランク王国の基礎となった。