「ウィリアム・カドガン (初代カドガン伯)」の版間の差分

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弁護士ヘンリー・カドガンの長男として生まれ、[[ウェストミンスター・スクール]]と[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティ・カレッジ]]で学習した後[[1690年]]に軍隊に入隊、マールバラ公の[[アイルランド]]遠征に従い[[コーク (アイルランド)|コーク]]と[[キンセール]]を落とし、[[1701年]]に[[竜騎兵]]を率いる少佐に昇進した。同年に補給局長に任命され、軍の輜重を任されるようになった。
弁護士ヘンリー・カドガンの長男として生まれ、[[ウェストミンスター・スクール]]と[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティ・カレッジ]]で学習した後[[1690年]]に軍隊に入隊、マールバラ公の[[アイルランド]]遠征に従い[[コーク (アイルランド)|コーク]]と[[キンセール]]を落とし、[[1701年]]に[[竜騎兵]]を率いる少佐に昇進した。同年に補給局長に任命され、軍の輜重を任されるようになった。


スペイン継承戦争ではマールバラ公が率いる軍勢を支え、[[1704年]]に[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]から[[ドイツ]]南方の[[ドナウ川]]まで総距離400kmに及ぶ長距離行軍で補給と行軍の手配を行い、[[シェレンベルクの戦い]]と[[ブレンハイムの戦い]]に参戦、[[1706年]]の[[ラミイの戦い]]では偵察役を務め、戦闘中は陽動のため敵に攻撃していた翼の引き上げ及び翼への部隊移動を行った。[[1708年]]の[[アウデナールデの戦い]]では敵より先に戦場に到達、[[スヘルデ川]]に舟橋を架けて付近の村を制圧、橋頭堡を築いて本隊到着までフランス軍の攻撃を耐え切り勝利に貢献した。[[1709年]]の[[マルプラケの戦い]]と[[モンス]]包囲で首を負傷している。
スペイン継承戦争ではマールバラ公が率いる軍勢を支え、[[1704年]]に[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]から[[ドイツ]]南方の[[ドナウ川]]まで総距離400kmに及ぶ長距離行軍で補給と行軍の手配を行い、[[シェレンベルクの戦い]]と[[ブレンハイムの戦い]]に参戦、[[1706年]]の[[ラミイの戦い]]では偵察役を務め、戦闘中は陽動のため敵に攻撃していた翼の引き上げ及び翼への部隊移動を行った。[[1708年]]の[[アウデナールデの戦い]]では敵より先に戦場に到達、[[スヘルデ川]]に舟橋を架けて付近の村を制圧、橋頭堡を築いて本隊到着までフランス軍の攻撃を耐え切り勝利に貢献した。[[1709年]]の[[マルプラケの戦い]]と[[モンス]]包囲で首を負傷している。


[[1711年]]にマールバラ公が失脚した後も大陸に残ったが、[[1712年]]に後任の司令官・[[ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)|オーモンド公]]がイギリス軍を大陸から引き上げさせた時、命令に従わず亡命、先にイギリスから大陸へ亡命したマールバラ公の後を追って同行、イギリスとマールバラ公の仲介に手を尽くした。[[1714年]]に[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]が即位、マールバラ公を失脚させた[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]が失脚・弾劾され[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]が政権を握るとマールバラ公と共に帰国、[[1715年]]に[[ジャコバイト]]が反乱を起こすと総指揮を執り反乱を鎮圧した。
[[1711年]]にマールバラ公が失脚した後も大陸に残ったが、[[1712年]]に後任の司令官・[[ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)|オーモンド公]]がイギリス軍を大陸から引き上げさせた時、命令に従わず亡命、先にイギリスから大陸へ亡命したマールバラ公の後を追って同行、イギリスとマールバラ公の仲介に手を尽くした。[[1714年]]に[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]が即位、マールバラ公を失脚させた[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]が失脚・弾劾され[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]が政権を握るとマールバラ公と共に帰国、[[1715年]]に[[ジャコバイト]]が反乱を起こすと総指揮を執り反乱を鎮圧した。

2011年11月26日 (土) 16:11時点における版

初代カドガン伯ウィリアム・カドガン

初代カドガン伯ウィリアム・カドガン(William Cadogan, 1st Earl Cadogan, 1675年 - 1726年7月17日)は、イギリスの軍人、政治家。スペイン継承戦争でイギリスの司令官マールバラ公ジョン・チャーチルに仕えて従軍、平民から貴族に出世した。

弁護士ヘンリー・カドガンの長男として生まれ、ウェストミンスター・スクールトリニティ・カレッジで学習した後1690年に軍隊に入隊、マールバラ公のアイルランド遠征に従いコークキンセールを落とし、1701年竜騎兵を率いる少佐に昇進した。同年に補給局長に任命され、軍の輜重を任されるようになった。

スペイン継承戦争ではマールバラ公が率いる軍勢を支え、1704年オランダからドイツ南方のドナウ川まで総距離400kmに及ぶ長距離行軍で補給と行軍の手配を行い、シェレンベルクの戦いブレンハイムの戦いに参戦、1706年ラミイの戦いでは偵察役を務め、戦闘中は陽動のため敵に攻撃していた右翼の引き上げ及び左翼への部隊移動を行った。1708年アウデナールデの戦いでは敵より先に戦場に到達、スヘルデ川に舟橋を架けて付近の村を制圧、橋頭堡を築いて本隊到着までフランス軍の攻撃を耐え切り勝利に貢献した。1709年マルプラケの戦いモンス包囲で首を負傷している。

1711年にマールバラ公が失脚した後も大陸に残ったが、1712年に後任の司令官・オーモンド公がイギリス軍を大陸から引き上げさせた時、命令に従わず亡命、先にイギリスから大陸へ亡命したマールバラ公の後を追って同行、イギリスとマールバラ公の仲介に手を尽くした。1714年ジョージ1世が即位、マールバラ公を失脚させたトーリー党が失脚・弾劾されホイッグ党が政権を握るとマールバラ公と共に帰国、1715年ジャコバイトが反乱を起こすと総指揮を執り反乱を鎮圧した。

1716年バークシャーレディングの土地を購入して宮殿を建造した。また、同年に男爵に叙爵されシッスル勲章を受勲、1717年枢密院のメンバーに選ばれ、1718年に伯爵に叙爵してワイト島の知事に任命されるなどホイッグ党政権下で厚遇された。1726年に51歳で死去、息子がいなかったため弟のチャールズが爵位を継承した(但し、男爵に降格)。

1704年にハーグでマーガレット・セシリア・ミュンターと結婚、2人の娘を儲けた。長女サラはイングランド王チャールズ2世ルイーズ・ケルアイユの庶出の孫に当たるリッチモンド公チャールズ・レノックスと結婚、次女マーガレットはポートランド伯ウィリアム・ベンティンクの息子チャールズ・ジョン・ベンティンクと結婚した。

参考文献

  • 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史彩流社、2007年。