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'''朱世傑'''(しゅせいけつ、生没年不詳)は、[[元 (王朝)|元]]初期の数学者。'''朱世杰'''とも表記される。字は漢卿。自号は松庭。
'''朱世傑'''(しゅせいけつ、生没年不詳)は、[[元 (王朝)|元]]初期の[[数学者]]。'''朱世杰'''とも表記される。字は漢卿。自号は松庭。


詳細な伝記は不詳であるが、元は燕山(現在の[[北京]]付近)の人で、官に就く事無く数学を学びながら国内を巡り、その間の[[1299年]]に『[[算学啓蒙]]』[[1303年]]『[[四元玉鑑]]』を著した。『四元玉鑑』執筆時には既に旅の生活も20年以上になっていたが、[[揚州]]に来た際に多くの人々が彼から数学を学ぼうと彼の元を訪れたを見てここに落ち着いて人々に数学えることに生涯を捧げたという。
詳細な伝記は不詳であるが、元は燕山(現在の[[北京]]付近)の人で、官に就かずに[[数学]]を学びながら国内を巡り、その間『[[算学啓蒙]]』[[1299年]])と『[[四元玉鑑]]』([[1303年]])を著した。『四元玉鑑』執筆時には旅の生活も既に20年以上になっていた[[揚州]]に来た際彼から[[数学]]を学ぼうと多くの人々が彼の元を訪れた。それを見てここに落ち着き、数学の[[育]]に生涯を捧げたという。


『算学啓蒙』は[[宋 (王朝)|宋]]から元にかけて発達した中国数学の集大成であり、[[命数法]]から四則算、面積計算、[[天元術]]に至るまで幅広い内容取り上げられている。[[極 (数)|極]]以上の命数法が初めて登場したのも同書である。『四元玉鑑』は天元術を発展させて四元の高次方程式を解く方法を論じた。
『算学啓蒙』は[[宋 (王朝)|宋]]から元にかけて発達した中国数学の集大成であり、[[命数法]]から[[算術|四則]][[面積]]計算、[[天元術]]に至るまで幅広い内容取り上げている。[[極 (数)|極]]以上の命数法が初めて登場したのも同書だった。『四元玉鑑』は天元術を発展させ、4元の高次[[線型方程式系|連立程式]]の解法を論じた。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*李迪 著/大竹茂雄・陸人瑞 訳『中国の数学通史』(森北出版、2002年)ISBN 978-4-627-01941-6
*李迪 著大竹茂雄・陸人瑞 訳『中国の数学通史』([[森北出版]]、2002年)ISBN 978-4-627-01941-6
*銭宝 編/川原秀城 訳『中国数学史』(みすず書房、1990年)ISBN 978-4-622-04083-5
*銭宝 編川原秀城 訳『中国数学史』([[みすず書房]]、1990年)ISBN 978-4-622-04083-5


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2011年11月11日 (金) 08:48時点における版

朱世傑(しゅせいけつ、生没年不詳)は、初期の数学者朱世杰とも表記される。字は漢卿。自号は松庭。

詳細な伝記は不詳であるが、元は燕山(現在の北京付近)の人で、官に就かずに数学を学びながら国内を巡り、その間『算学啓蒙』(1299年)と『四元玉鑑』(1303年)を著した。『四元玉鑑』執筆時には旅の生活も既に20年以上になっていた。揚州に来た際、彼から数学を学ぼうと多くの人々が彼の元を訪れた。それを見てここに落ち着き、数学の教育に生涯を捧げたという。

『算学啓蒙』はから元にかけて発達した中国数学の集大成であり、命数法から四則演算面積計算、天元術に至るまで幅広い内容を取り上げている。以上の命数法が初めて登場したのも同書だった。『四元玉鑑』は天元術を発展させ、4元の高次連立方程式の解法を論じた。

参考文献