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2011年5月27日 (金) 10:59時点における版

在日本朝鮮人連盟
画像
在日本朝鮮人連盟中央総本部
各種表記
ハングル 재일조선인련맹/재일조선인연맹
漢字 在日本朝鮮人聯盟
発音 チェイルチョソンニンリョンメン/チェイルチョソンニンヨンメン
日本語読み: ざいにほんちょうせんじんれんめい
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金天海釈放を歓迎し、GHQ前で万歳を叫ぶ朝鮮人たち

在日本朝鮮人連盟(ざいにほんちょうせんじんれんめい、재일조선인련맹/재일조선인연맹)は、昭和20年(1945年)に結成され、昭和24年(1949年)9月8日に解散した日本在住の朝鮮人によって組織された団体。略称は「朝連(ちょうれん、チョリョン、조련)」。

概要

昭和20年(1945年)10月15日、日比谷公会堂で、在日本朝鮮人連盟が結成された。全国各地の代表4000人が集まった。結成時の綱領は「新朝建設に献身的努力を期す」「世界平和の恒常的維持を期す」「在日同胞の生活安定を期す」「帰国同胞の便宜と秩序を期す」「日本国民との互譲友誼を期す」「目的達成のために大同団結を期す」の6項目だった。金天海が、最高顧問に就いた。韓徳銖(後の在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)議長)は神奈川県本部委員長に就任した。

日本共産党の尖兵として、また朝鮮人自らを「連合国人(戦勝国民)」であると勝手に位置づけ、敗戦国日本の法令に従う義務はないとして武生事件では裁判所や検察庁を焼き討ちをするなど、終戦後の混乱が続く日本国内各地で暴行・略奪・窃盗・官公署への横暴な態度と不当な要求・建築物の不法占拠・汽車、電車、バスなどの不法乗車・人民裁判などを引き起こした。[1]

しかし、1945年9月30日にはGHQが「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」で、朝連が「地外法権的地位にないこと」を発表しており、1949年9月8日にはGHQにより団体等規正令の「暴力主義的団体」として解散を命じられ、その資産は没収されることになった。[1]

その後は、後継団体として在日朝鮮統一民主戦線が結成され、後に朝鮮総連へと発展していった。

参考文献

  • 宮崎学『不逞者』幻冬舎<幻冬舎アウトロー文庫>、1999年、ISBN 4-87728-734-5
  • 『在日朝鮮人運動(実務教養選書)』(篠崎平治、1955年)
  • 『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』(李瑜煥、1980年)
  • 『「在日」としてのコリアン』(原尻英樹、1998年)
  • 『在日本朝鮮人連盟』(岩波書店、2009年)

脚注

  1. ^ a b 「現代コリア」2000年5月号

関連項目