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== 歴史 ==
== 歴史 ==
創建年は不詳だが当初は「志自岐羽黒権現宮」と称していた。社殿棟札や社記には『再建立年 [[貞享]]甲子([[1684年]])九月』とあり、[[五島藩]][[藩主]]の祈願所として再建されたとある。その経緯より歴代藩主の江戸参勤等の入出府には旅の安全や航海安全の祈願を行っており、その際には7番から12番の[[五島神楽|神楽]]も奉納された。また、当社には当時の藩主による祈願文も残されている。[[文久]]年([[1864年]])の社殿改築の際は全てを公費で賄い、陣頭指揮には藩の寺社奉行、代官を出張させこれに当たらせた。[[明治]]3年(1870年)に「志自岐羽黒神社」に改称し、翌年に[[村社]]に列せられる。同43年([[1910年]])6月25日に、郷内の尾崎神社、稲荷神社、恵比須神社、立岩神社、羽黒神社を合祀する。[[大正]] 3年([[1914年]])5月5日に神饌幣帛供進神社に指定され、同11年([[1922年]])9月12日、[[郷社]]に列せられる。
創建年は不詳だが当初は「志自岐羽黒権現宮」と称していた。社殿棟札や社記には『再建立年 [[貞享]]甲子([[1684年]])九月』とあり、[[五島藩]][[藩主]]の祈願所として再建されたとある。その経緯より歴代藩主の江戸参勤等の入出府には旅の安全や航海安全の祈願を行っており、その際には7番から12番の[[五島神楽|神楽]]も奉納された。また、当社には当時の藩主による祈願文も残されている。[[文久]]4年([[1864年]])の社殿改築の際は全てを公費で賄い、陣頭指揮には藩の寺社奉行、代官を出張させこれに当たらせた。[[明治]]3年(1870年)に「志自岐羽黒神社」に改称し、翌年に[[村社]]に列せられる。同43年([[1910年]])6月25日に、郷内の尾崎神社、稲荷神社、恵比須神社、立岩神社、羽黒神社を合祀する。[[大正]]3年([[1914年]])5月5日に神饌幣帛供進神社に指定され、同11年([[1922年]])9月12日、[[郷社]]に列せられる。
なお、尾崎神社(祭神・[[櫛稲田姫]])はその後、旧来の鎮座地に複祀されている。
なお、尾崎神社(祭神・[[櫛稲田姫]])はその後、旧来の鎮座地に複祀されている。
[[ファイル:iwaseura-ozaki.JPG|170px|thumb|尾崎神社]]
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2011年4月18日 (月) 10:24時点における版

志自岐羽黒神社
所在地 長崎県南松浦郡新上五島町岩瀬浦郷703-9
位置 北緯32度52分59.887秒 東経129度05分7.156秒 / 北緯32.88330194度 東経129.08532111度 / 32.88330194; 129.08532111
主祭神 倉稲玉命
十城別王命
外2柱
社格 旧郷社
創建 不詳
例祭 10月9日
主な神事  
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志自岐羽黒神社(しじきはぐろじんじゃ)は、長崎県新上五島町岩瀬浦郷に鎮座する神社である。奈良尾東掛(奈良尾、岩瀬浦、東神の浦、鯛の浦、阿瀬津、太田)の産土神として崇敬された。

祭神

倉稲玉命十城別王命を主祭神に、菅原道真天穂日大神の2柱を配祀する。 配祀神の菅原道真と天穂日大神は、郷内の近年社殿が倒壊した天満神社の祭神であり、その際合祀されたと思われる。

天満神社

歴史

創建年は不詳だが当初は「志自岐羽黒権現宮」と称していた。社殿棟札や社記には『再建立年 貞享甲子(1684年)九月』とあり、五島藩藩主の祈願所として再建されたとある。その経緯より歴代藩主の江戸参勤等の入出府には旅の安全や航海安全の祈願を行っており、その際には7番から12番の神楽舞も奉納された。また、当社には当時の藩主による祈願文も残されている。文久4年(1864年)の社殿改築の際は全てを公費で賄い、陣頭指揮には藩の寺社奉行、代官を出張させこれに当たらせた。明治3年(1870年)に「志自岐羽黒神社」に改称し、翌年に村社に列せられる。同43年(1910年)6月25日に、郷内の尾崎神社、稲荷神社、恵比須神社、立岩神社、羽黒神社を合祀する。大正3年(1914年)5月5日に神饌幣帛供進神社に指定され、同11年(1922年)9月12日、郷社に列せられる。 なお、尾崎神社(祭神・櫛稲田姫)はその後、旧来の鎮座地に複祀されている。

尾崎神社

祭祀

主な祭礼・神事


境内社

境内社
住吉、山神神社


参考文献

  • 荒木文朗著『五島神社誌(復刻版)』、昭和18年