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'''三淵 藤英'''(みつぶち ふじひで、? - [[天正]]2年[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]([[1574年]][[7月23日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]、[[室町幕府]]末期の[[幕臣]]([[奉公衆]])。[[三淵晴員]]の長男で異母弟には[[細川幽斎|細川藤孝]](伯父の[[和泉国|和泉]]半国[[守護]][[細川元常]]の養子)がいる。他の兄弟に[[長岡好重]]など。[[三淵秋豪|秋豪]]、[[三淵光行|光行]]、[[朽木昭貞]]、[[三淵昭知|昭知]]、[[朽木昭長]]の父。通称は弥四郎、官途はは弾正左衛門尉、大和守。別名は顕家。初名は藤之。
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2011年4月12日 (火) 20:13時点における版

三淵 藤英(みつぶち ふじひで、? - 天正2年7月6日1574年7月23日))は、戦国時代武将室町幕府末期の幕臣奉公衆)。三淵晴員の長男で異母弟には細川藤孝(伯父の和泉半国守護細川元常の養子)がいる。他の兄弟に長岡好重など。秋豪光行朽木昭貞昭知朽木昭長の父。通称は弥四郎、官途はは弾正左衛門尉、大和守。別名は顕家。初名は藤之。

永禄8年(1565年)に第13代将軍足利義輝松永久秀三好三人衆暗殺されると(永禄の変)、藤英は弟の藤孝と共に義輝の弟で一乗院門跡覚慶(後の足利義昭)を擁立して近江矢島に於いて還俗・元服させ、義昭と共に越前朝倉義景を頼り赴き、後に尾張に移った。

織田信長に擁立されて義昭が第15代将軍となると、山城伏見城周辺の守備を命じられたという。その後も南山城の軍勢を率いて和田惟政伊丹親興と共に三好氏との戦いに参加する一方、行政官僚としての手腕を発揮して義昭の重臣の1人となる。永禄11年(1568年)には大和守に叙任している。

だが、義昭と信長が対立した時に弟・藤孝が義昭を裏切り信長方に付いたことを知って激怒、藤孝襲撃を計画するが失敗に終わる。天正元年(1573年)に義昭が山城槇島城に籠城すると、藤英は二条城の城代となる。だが、信長の大軍に囲まれて軍は潰走したため、居城の伏見城に退き、直後に信長方の将岩成友通を攻めるが、藤孝と柴田勝家の説得を受けて降伏した。間もなく、義昭は信長によって追放され(槇島城の戦い)、室町幕府は事実上滅亡してしまったので藤英もやむをえなく信長に仕える。

だが、翌年になって信長によって突如所領を没収されて明智光秀の元に預けられて、嫡男秋豪と共に自害を命じられた。幼い末子は藤孝に預けられてそのまま細川家に仕えて三淵光行と名乗る。後に関ヶ原の戦いに付随して生じた丹後田辺城の戦い(田辺城の戦い)において、光行はよく叔父を助けたことを知った徳川家康に高く評価されて細川家から徳川家の旗本として召しだされた。また、弟の長岡好重(伊賀守)は三淵の名跡を継ぎ、肥後藩に仕えた。