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2010年12月13日 (月) 13:15時点における版
張 邈(ちょう ばく、? - 興平2年(195年))は、後漢末期の政治家。陳留郡の太守。東平郡寿張の人。字は孟卓。張超の兄。『三国志』では「呂布伝」に付伝されている。
生涯
「董卓伝」の引く『漢末名士録』や『後漢書』の「党錮伝」によると、漢の八俊(八厨)の一人であったとある。若い頃から男伊達で気前がよく、困っている者を救うための散財を惜しまなかった。曹操や袁紹と親友のように仲が良かった[1]。 頭脳の明晰さと徳行で官界に知られるようになった。三公の府に招聘を受け、成績優秀という評価を受け、騎都尉を務めた後、董卓の名士優遇策の一環として、陳留郡の太守に任命された(「董卓伝」)。
袁紹を盟主として董卓を討つ連合軍が結成された時、張邈は、曹操らとともに参戦した[2]。 張邈は弟の張超や曹操、兗州刺史の劉岱、山陽太守の袁遺、東郡太守の橋瑁、済北の相鮑信と共に酸棗に駐屯したが、大半の諸侯は酒宴ばかりで戦をしようとしなかった[3]。 曹操が戦をするようよびかけると(武帝紀)、張邈は鮑信と共に曹操の求めに応じ、部下の衛茲を曹操に同行させた。しかし、曹操達は董卓の派遣した徐栄に大敗し、衛茲は戦死した。酸棗の軍勢も兵糧が尽きて解散した(「後漢書』)。
これ以前、袁紹は、董卓を討つべく集まった諸侯に対して奢ったふるまいを見せた事があった。張邈は袁紹に、己の振る舞いを改めるよう諫めたが、逆に袁紹の怒りを買って殺されそうになった。この時、曹操が袁紹にとりなしたため、危うく難を逃れている。張邈はこの事を知ると、曹操に恩義を感じた。
長安で勃発した政変の結果、董卓の部下である李傕達に敗れて落ち延びてきた呂布は袁紹の下に身を寄せたが、諍いを起こし、袁紹の下から立ち去った。その後、張邈は呂布と親交を結ぶのだが、それが原因で袁紹の不興を買ってしまう。その後、呂布は張楊の下に身を寄せた。張邈は『いつか、曹操が袁紹との友情を優先して、自分を殺すのではないか』と、曹操に疑念を抱くようになった。
興平元年(194年)、再び曹操は徐州の陶謙を攻めるために本拠を留守にした。張邈は曹操の部将の陳宮から、「今こそ曹操の領地を奪う好機」と唆され、また、曹操と不仲だった弟の張超にも諭され、彼らと結託して呂布を迎え入れ、曹操に対し反乱を起こす。 張邈と呂布は短期間で曹操の本拠地である兗州の大半を占領した。急報を聞きつけ、遠征先の徐州から引き返し、逆襲を期する曹操軍を返り討ちにする事にも成功した。しかし、荀彧・程昱・夏侯惇・棗祗らが守る3城を落とせず、曹操の勢力に止めを刺す事は出来なかった。その後、飢饉が勃発し、両者の争いは一時的に中断される。
翌・興平2年(195年)には、勢いを盛り返した曹操に敗れ、兗州から撤退。呂布や陳宮らは、陶謙から徐州を譲り受けていた劉備を頼って落ち延びた。張邈自身は、陳留に居た弟の張超らと分断されていた。張邈は、陳留の一族を救出するため袁術に援軍を求めに向かう途上、部下の裏切りにあい、殺された。前後して陳留は落ち、張超など張邈の遺族は、曹操の追及を逃れて雍丘に移った。このころには曹操は長安の天子から正式に兗州の牧に任命され(武帝紀)、張邈達は賊の立場に追い込まれていた。
翌建安元年(196年)、雍丘は曹操軍の攻撃によって陥落。張超は焼身自殺し、張邈の三族(父母、兄弟、実子と養子)も、曹操によって皆殺しの刑に処せられた。
小説『三国志演義』でも、若干の脚色を除いては、ほぼ同様の描写がなされている。