「今岡十一郎」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
YukkeBot2 (会話 | 投稿記録)
m clean up + リダイレクト回避, Replaced: 東京帝国大学東京帝国大学
Cat+1、加筆。
4行目: 4行目:
[[松江市]]生まれ。[[1914年]]、[[東京外国語学校]]ドイツ語科卒業。同年、来日中のハンガリーの民俗学者[[バラートシ=バログ・ベネデク]](Barátosi-Balogh Benedek; [[1870年]]–[[1945年]])の[[アイヌ]]・[[ニヴフ|ギリヤーク]]・[[オロッコ]]研究旅行に通訳として同行し、[[北海道]]や[[樺太]]を巡る。これが縁で、バラートシから[[ツラン運動]]([[:en:Turanism]])<ref>日本人やフィンランド人やハンガリー人やトルコ人など、[[ユーラシア大陸]]における非[[印欧語]]系諸民族の連帯を呼びかけた思想・文化運動。当時、ハンガリー人の間に熱狂的な日本語学習熱を生んだ。</ref>の日本普及に協力するよう求められる。
[[松江市]]生まれ。[[1914年]]、[[東京外国語学校]]ドイツ語科卒業。同年、来日中のハンガリーの民俗学者[[バラートシ=バログ・ベネデク]](Barátosi-Balogh Benedek; [[1870年]]–[[1945年]])の[[アイヌ]]・[[ニヴフ|ギリヤーク]]・[[オロッコ]]研究旅行に通訳として同行し、[[北海道]]や[[樺太]]を巡る。これが縁で、バラートシから[[ツラン運動]]([[:en:Turanism]])<ref>日本人やフィンランド人やハンガリー人やトルコ人など、[[ユーラシア大陸]]における非[[印欧語]]系諸民族の連帯を呼びかけた思想・文化運動。当時、ハンガリー人の間に熱狂的な日本語学習熱を生んだ。</ref>の日本普及に協力するよう求められる。


[[東京大学|東京帝国大学]]経済統計研究室などに勤務した後、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を経て[[ドイツ]]に留学し、程なくしてバラートシ=バログの招きで[[1922年]]にハンガリーへ移り、[[ブダペスト大学]]哲学科を卒業。この後も[[1931年]]の帰国まで約10年間ハンガリーに滞在し、日本文化の紹介に尽力。同国の[[新聞]]や[[雑誌]]に寄稿すること800回、同国各地で講演をおこなうこと750回に及んだ。[[1923年]]からブダペスト大学で日本語の講座が開かれたのは今岡の啓蒙活動による。
[[東京大学|東京帝国大学]]経済統計研究室<!--教官制だったらしいが、職位は不明です。-->などに勤務した後、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を経て[[ドイツ]]に留学し、程なくしてバラートシ=バログの招きで[[1922年]]にハンガリーへ移り、[[ブダペスト大学]]哲学科を卒業。この後も[[1931年]]の帰国まで約10年間ハンガリーに滞在し、日本文化の紹介に尽力。同国の[[新聞]]や[[雑誌]]に寄稿すること800回、同国各地で講演をおこなうこと750回に及んだ。[[1923年]]からブダペスト大学で日本語の講座が開かれたのは今岡の啓蒙活動による。


帰国後は[[外務省]]に勤務する傍ら、日洪文化協会理事などを歴任し、同協会の出版・講演会などの事業をほぼ一手に引き受け、日本=ハンガリー間の文化交流の中心人物として活動。ハンガリーの[[文学]]や[[歴史]]に関する著書や論文を多数執筆。戦後に外務省を辞した後も同省の一室に専用の机を持ち、晩年に至るまで独力で『ハンガリー語辞典』の編纂に従事。この事業を完成した直後に85歳で逝去。
帰国後は[[外務省]]に勤務する傍ら、日洪文化協会理事などを歴任し、同協会の出版・講演会などの事業をほぼ一手に引き受け、日本=ハンガリー間の文化交流の中心人物として活動。ハンガリーの[[文学]]や[[歴史]]に関する著書や論文を多数執筆。戦後に外務省を辞した後も同省の一室に専用の机を持ち、晩年に至るまで独力で『ハンガリー語辞典』の編纂に従事。この事業を完成した直後に85歳で逝去。
13行目: 13行目:
{{reflist}}
{{reflist}}


{{DEFAULTSORT:いまおかしゆういちろう}}
{{DEFAULTSORT:いまおか しゆういちろう}}
[[Category:島根県出身の人物]]
[[Category:日本の言語学者]]
[[Category:日本の言語学者]]
[[Category:辞典編纂者]]
<!--[[Category:東京大学の教員]]-->
[[Category:島根県出身の人物]]
[[Category:1888年生]]
[[Category:1888年生]]
[[Category:1973年没]]
[[Category:1973年没]]

2010年12月6日 (月) 14:25時点における版

今岡 十一郎(いまおか じゅういちろう、1888年 - 1973年9月2日)は島根県出身のハンガリー語学者。専門のハンガリー語の他、フィンランド語辞典の著もある。また叢書『フィン・ウゴル研究』を編集刊行し、日本におけるウラル学の先駆者やハンガリーにおける日本文化紹介者として知られる。

経歴

松江市生まれ。1914年東京外国語学校ドイツ語科卒業。同年、来日中のハンガリーの民俗学者バラートシ=バログ・ベネデク(Barátosi-Balogh Benedek; 1870年1945年)のアイヌギリヤークオロッコ研究旅行に通訳として同行し、北海道樺太を巡る。これが縁で、バラートシからツラン運動en:Turanism[1]の日本普及に協力するよう求められる。

東京帝国大学経済統計研究室などに勤務した後、アメリカを経てドイツに留学し、程なくしてバラートシ=バログの招きで1922年にハンガリーへ移り、ブダペスト大学哲学科を卒業。この後も1931年の帰国まで約10年間ハンガリーに滞在し、日本文化の紹介に尽力。同国の新聞雑誌に寄稿すること800回、同国各地で講演をおこなうこと750回に及んだ。1923年からブダペスト大学で日本語の講座が開かれたのは今岡の啓蒙活動による。

帰国後は外務省に勤務する傍ら、日洪文化協会理事などを歴任し、同協会の出版・講演会などの事業をほぼ一手に引き受け、日本=ハンガリー間の文化交流の中心人物として活動。ハンガリーの文学歴史に関する著書や論文を多数執筆。戦後に外務省を辞した後も同省の一室に専用の机を持ち、晩年に至るまで独力で『ハンガリー語辞典』の編纂に従事。この事業を完成した直後に85歳で逝去。

2001年には今岡の長女の尽力によって『ハンガリー語辞典』の改訂新版が刊行された。

脚注

  1. ^ 日本人やフィンランド人やハンガリー人やトルコ人など、ユーラシア大陸における非印欧語系諸民族の連帯を呼びかけた思想・文化運動。当時、ハンガリー人の間に熱狂的な日本語学習熱を生んだ。