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ウズベキスタンは[[2001年]]の[[対テロ戦争]]への協力でも明らかなように、親欧米路線を取っていたが、[[2002年]]からは離脱を表明、GUUAMの会議にも出席していなかった。最終的に、[[2005年]]に起きた国民の反政府運動が欧米勢力に煽動されたものとして、親露へ転じて脱退した。なお、ウズベキスタンは[[上海協力機構]]の結成メンバーでもあり、当初より4国と性格を異にしていた。
ウズベキスタンは[[2001年]]の[[対テロ戦争]]への協力でも明らかなように、親欧米路線を取っていたが、[[2002年]]からは離脱を表明、GUUAMの会議にも出席していなかった。最終的に、[[2005年]]に起きた国民の反政府運動が欧米勢力に煽動されたものとして、親露へ転じて脱退した。なお、ウズベキスタンは[[上海協力機構]]の結成メンバーでもあり、当初より4国と性格を異にしていた。


しかし、その後モルドバとアゼルバイジャンは[[全方位外交]]路線へと方針展開し、ウクライナでもロシアとの関係改善を掲げる[[ヴィクトル・ヤヌコヴィチ]]が大統領に就任したことで、現在明確に反ロシア姿勢を明確しているのはグルジア一国だけである。
しかし、その後モルドバとアゼルバイジャンは[[全方位外交]]路線へと方針展開し、ウクライナでもロシアとの関係改善を掲げる[[ヴィクトル・ヤヌコヴィチ]]が大統領に就任したことで、現在明確に反ロシア姿勢を明確しているのはグルジア一国だけである。


== 関連項目 ==
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2010年11月8日 (月) 02:30時点における版

2006年5月22日23日キエフで開催されたGUAM会議の記念切手。

GUAMキリル文字: ГУАМ, グルジア文字.: სუამი) とは、グルジアウクライナアゼルバイジャンモルドバの4カ国による国家連合である。GUAMという名称は、加盟4カ国の頭文字を集めたもの。事務局をウクライナのキエフに置く。なお、1999年から2005年まではウズベキスタンも加盟していたため、GUUAMという名称であった。

加盟国

歴史

ソビエト連邦の崩壊後、バルト三国を除く12カ国が独立国家共同体 (CIS) を形成したが、ロシアが旧ソ連諸国への影響力を維持するための機構として残ったため、ロシアの影響圏からの離脱を希望する上記4カ国が集まり、1997年10月10日に創設された。当初は連絡会議としての性格が強かったが、2002年6月に開催された首脳会議にて、GUUAM憲章条約が調印された。その後、2004年12月に脱露・入欧米路線を掲げるヴィクトル・ユシチェンコオレンジ革命によりウクライナの大統領に選出されると、反ロシア連合を強化しようという動きが強まり、2006年5月22日から23日にかけてキエフで開催された会議で、正式名称をGUAMから「民主主義と経済発展のための機構GUAM」と変更すること、事務局のキエフへの設置が決定された。

この機構の趣旨はCIS諸国に「自由、民主主義、人権擁護、法の支配等の共通の価値」を広げる、というものだが、その4つの点に当てはまらないアゼルバイジャンやモルドバ[要出典]が加盟していることから、事実上の反露同盟の性格が強いとみなされている。この四カ国の共通点は比較的親欧米路線で、ロシアとは政治・領土・エネルギー問題で対立関係にあるというところである。

ウズベキスタンは2001年対テロ戦争への協力でも明らかなように、親欧米路線を取っていたが、2002年からは離脱を表明、GUUAMの会議にも出席していなかった。最終的に、2005年に起きた国民の反政府運動が欧米勢力に煽動されたものとして、親露へ転じて脱退した。なお、ウズベキスタンは上海協力機構の結成メンバーでもあり、当初より4国と性格を異にしていた。

しかし、その後モルドバとアゼルバイジャンは全方位外交路線へと方針展開し、ウクライナでもロシアとの関係改善を掲げるヴィクトル・ヤヌコーヴィチが大統領に就任したことで、現在明確に反ロシア姿勢を明確しているのはグルジア一国だけである。

関連項目

外部リンク