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成長した保良は、[[徳川秀忠]]の長女・[[千姫]]の女中であった松坂局に奉公する。やがて綱重に見初められて側室となり、[[寛文]]2年([[1662年]])に虎松(後の家宣)、同3年([[1663年]])に熊之助(後の[[松平清武]])を生む。しかし、保良は綱重より7歳も年上で、しかも当時の綱重は[[公家]][[二条光平]]の娘・隆崇院との縁談が持ち上がっていた。そのため、虎松は家老・新見正信が養い、清武は藩士・越智清重が養った。また、保良は清重に預けられるが、寛文4年(1664年)2月28日に病没する。行年は28で、遺骸は日暮里(東京都荒川区)の善性寺に埋葬されたが、虎松改め家宣が将軍となったため、のちに[[寛永寺]]へ改葬された。
成長した保良は、[[徳川秀忠]]の長女・[[千姫]]の女中であった松坂局に奉公する。やがて綱重に見初められて側室となり、[[寛文]]2年([[1662年]])に虎松(後の家宣)、同3年([[1663年]])に熊之助(後の[[松平清武]])を生む。しかし、保良は綱重より7歳も年上で、しかも当時の綱重は[[公家]][[二条光平]]の娘・隆崇院との縁談が持ち上がっていた。そのため、虎松は家老・新見正信が養い、清武は藩士・越智清重が養った。また、保良は清重に預けられるが、寛文4年(1664年)2月28日に病没する。行年は28で、遺骸は日暮里(東京都荒川区)の善性寺に埋葬されたが、虎松改め家宣が将軍となったため、のちに[[寛永寺]]へ改葬された。


尚、姑の[[順性院]]([[徳川家光]]の側室・夏)とは折り合いが悪かったとされる。{{要出典}}
尚、姑の[[順性院]]([[徳川家光]]の側室・夏)とは折り合いが悪かったとされる。{{要出典|date=2008年9月}}


現在、長昌院の墓碑は谷中(同台東区)の徳川家[[墓地]]にあり、善性寺には上野[[館林藩]]主となった清武の墓碑がある。
現在、長昌院の墓碑は谷中(同台東区)の徳川家[[墓地]]にあり、善性寺には上野[[館林藩]]主となった清武の墓碑がある。

2010年11月2日 (火) 09:51時点における版

長昌院(ちょうしょういん、寛永14年(1637年) - 寛文4年2月28日1664年3月25日))は甲府藩主・徳川綱重の側室で、第6代将軍徳川家宣の生母。名は保良

略歴

後北条氏の家臣・田中勝宗の娘とされるが、魚屋の伏見屋五郎兵衛(善兵衛)の娘などとする説もある。

成長した保良は、徳川秀忠の長女・千姫の女中であった松坂局に奉公する。やがて綱重に見初められて側室となり、寛文2年(1662年)に虎松(後の家宣)、同3年(1663年)に熊之助(後の松平清武)を生む。しかし、保良は綱重より7歳も年上で、しかも当時の綱重は公家二条光平の娘・隆崇院との縁談が持ち上がっていた。そのため、虎松は家老・新見正信が養い、清武は藩士・越智清重が養った。また、保良は清重に預けられるが、寛文4年(1664年)2月28日に病没する。行年は28で、遺骸は日暮里(東京都荒川区)の善性寺に埋葬されたが、虎松改め家宣が将軍となったため、のちに寛永寺へ改葬された。

尚、姑の順性院徳川家光の側室・夏)とは折り合いが悪かったとされる。[要出典]

現在、長昌院の墓碑は谷中(同台東区)の徳川家墓地にあり、善性寺には上野館林藩主となった清武の墓碑がある。

長昌院が登場する作品