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2010年10月30日 (土) 12:07時点における版
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保9年4月12日(1724年5月4日) |
死没 | 宝暦8年9月26日(1758年10月27日) |
別名 | 熊太郎(幼名) |
戒名 | 方広院殿雲峰道端大居士 |
墓所 | 東京都品川区南品川の東海寺清光院 |
官位 | 従五位下、丹後守、山城守、大膳大夫 |
藩 | 豊前中津藩主 |
氏族 | 奥平氏 |
父母 | 父:奥平昌成、母:沢渡氏(松嶺院) |
兄弟 | 豊太郎、奥平昌敦、奥平昌純、万之丞、 竹谷松平義峯、妹(内藤信興室)、 妹(建部長教婚約)、妹(土屋篤直室)、 妹(堀田正邦室) |
妻 | 正室:牧野貞通の娘・菊子(心源院) |
子 | 奥平昌鹿(長男)、池田喜生(次男)、 山野辺義風(三男) |
奥平 昌敦(おくだいら まさあつ)は、豊前中津藩の第2代藩主。中津藩奥平家6代。
享保9年(1724年)4月12日、中津藩初代藩主・奥平昌成の次男として中津で生まれる。元文2年(1737年)12月16日に従五位下・丹後守に叙位・任官され、寛保2年(1742年)6月1日に山城守に遷任される。延享3年(1746年)、父の死去により家督を継いで第2代藩主となった。
昌敦は宝暦改革といわれる藩政改革に着手し、倹約や奉行制度の制定、目付や目安箱の設置、宝暦札の発行、運上役所の設置と商業統制、宝暦2年(1752年)の61か条、宝暦4年(1754年)の27か条による農政改革などを行なった。また、幕命で江戸城門番を務め、延享4年(1747年)1月4日には大膳大夫に遷任されている。
宝暦8年(1758年)9月26日に江戸で死去した。享年35。後を長男・昌鹿が継いだ。