「孤島の太陽」の版間の差分
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*退職後も沖の島で暮らし、島民や子供たちからは「アラキさん」、「初ねえさん」、「初子おばちゃん」と慕われ続けた。 |
*退職後も沖の島で暮らし、島民や子供たちからは「アラキさん」、「初ねえさん」、「初子おばちゃん」と慕われ続けた。 |
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*沖の島ロケには、島民総出でエキストラ出演し、完成時にカットされた数多くの素朴な島民シーンがある。中にはエキストラを超えた個別撮影シーンも存在したが、本編には採用されなかった。 |
*沖の島ロケには、島民総出でエキストラ出演し、完成時にカットされた数多くの素朴な島民シーンがある。中にはエキストラを超えた個別撮影シーンも存在したが、本編には採用されなかった。 |
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*[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]「[[おはなはん]]」主演で人気絶頂だった[[樫山文枝]]をはじめ、日活大スターが僻地の孤島へロケに来る、という例は当時非常に珍しく、高知新聞による報道ほか県内では前代未聞の文化イベントとして現地ロケは注目された。 |
*[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]「[[おはなはん]]」主演で人気絶頂だった[[樫山文枝]]をはじめ、[[芦川いづみ]]ら日活大スターが僻地の孤島へロケに来る、という例は当時非常に珍しく、高知新聞による報道ほか県内では前代未聞の文化イベントとして現地ロケは注目された。 |
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*当時広瀬部落には「金子旅館」があったが、スタッフを収容しきれず一般民家に宿泊しながらの撮影が行なわれた。[[樫山文枝]]もその一人で、主演女優でありながらロケ中は地元小学校の教員宅に寄宿し、島民とのふれあいを大切にした。 |
*当時広瀬部落には「金子旅館」があったが、スタッフを収容しきれず一般民家に宿泊しながらの撮影が行なわれた。[[樫山文枝]]もその一人で、主演女優でありながらロケ中は地元小学校の教員宅に寄宿し、島民とのふれあいを大切にした。 |
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*広瀬部落の伝統行事「傘鉾」(カサボコ。地元では「カ」の発音にアクセント)が収録された三浦家の庭は、鎌倉時代から続くとされる島祖、三浦則久一族の本家。平地のない沖の島では沖の島小学校・中学校(小中併設)(現[[宿毛市立沖の島小学校]])に次ぐ広い敷地であった。 |
*広瀬部落の伝統行事「傘鉾」(カサボコ。地元では「カ」の発音にアクセント)が収録された三浦家の庭は、鎌倉時代から続くとされる島祖、三浦則久一族の本家。平地のない沖の島では沖の島小学校・中学校(小中併設)(現[[宿毛市立沖の島小学校]])に次ぐ広い敷地であった。 |
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==関連書籍== |
==関連書籍== |
2010年10月4日 (月) 21:44時点における版
孤島の太陽 | |
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監督 | 吉田憲二 |
脚本 | 千葉茂樹 |
出演者 |
樫山文枝 勝呂誉 宇野重吉 前田吟 芦川いづみ 二木てるみ 浜村純 下絛正巳 浦辺粂子 三崎千恵子 |
撮影 | 萩原憲治 |
配給 | 日活 |
公開 | 1968年9月21日 |
上映時間 | 106分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
『孤島の太陽』(ことうのたいよう、英題:No Greater Love Than This)は、1968年に製作された日本映画。製作・制作・配給日活、監督吉田憲二、脚本千葉茂樹、原作・原案伊藤桂一。上映時間106分。1968年9月21日初封切。
概要
伊藤桂一著 1967年講談社刊行の小説、『「沖ノ島」よ私の愛と献身を 離島の保健婦荒木初子さんの十八年』を、翌年に映画化した作品。 現在の高知県宿毛市沖の島町を舞台に、現地で保健衛生医療の普及および向上に貢献した荒木初子駐在保健婦(1917年 - 1998年)の献身的な活動を描いた感動の物語。
終戦直後 - 昭和30年代、亜熱帯気候に属する絶海の孤島沖の島および隣接する鵜来島は、美しい自然とは裏腹に劣悪な衛生状態におかれた無医村だった。乳児の死亡率は本土の4倍、さらにフィラリアが沖の島特有の風土病として島民の健康を蝕んでいた。 当時フィラリア症は、別名「象皮症」や発症部位により「ホテアシ(布袋足)」、「イッショウギンタマ(一升金玉)」と呼ばれ、島民はもとより、本土から来訪する者も一目見ただけで怖れをなす奇病と認識されていた。同じ高知県内においても県民感情としては、フィラリア患者とその親族、ひいては沖の島という島全体が差別的な状況にあった。
高知県幡多郡沖の島村広瀬地区に生まれ育った荒木初子は、当時全国の若者を蝕んだ結核に冒されていた。終戦間際の昭和20年8月、絶望的な戦局の中で日本軍は特攻潜水艦基地を沖の島に建設、来たるべき決戦激闘に備えて強制疎開の命令を出し、全島民を強制退去させる。病身の若き初子は担架で島を離れ、療養中に終戦を迎える。 結核から回復した初子は、高知県衛生会産婆学校に入学。卒業して保健婦資格を取得すると、故郷の無医村、沖の島への赴任辞令を受ける。そして無医村の絶海の孤島にもかかわらず、強制疎開から帰った島民をはじめ、戦地から復員した者、終戦直後のベビーブームもあいまって、小さな島の集落には人々が溢れていた。
ストーリー
物語の舞台は豊後水道に位置する沖の島。島出身の主人公:初子は保健婦資格を取得して生まれ故郷の無医村・沖の島に赴任命令を受けて戻ってきた。けれども、愛する郷里に帰ったにもかかわらず、保健衛生の心得を説いて回る初子に幼い頃から馴染みだった島民でさえ、面倒で難しい講釈はお断り、という状況。年配者の漁師や、猫の額ほどの小さな畑を耕作しながら家庭を守る主婦の大半は学校すらきちんと入れさせてもらえていない。閉鎖的で近代ではもはや物理的必要がない昔からの風習が残っている迷信深い土地の上、無医村であることや貧困のため、衛生に対する島民の無知、禁忌やタブーが蔓延しており、島の衛生医療事情は劣悪で整備もされずに放置されていた。初子は先ず保健衛生の正しい知識伝授に対する島民のアレルギーをほぐす所から始めなければならず、前途は多難であった。
さっそく初子は、身寄りのない少女を引き取り育てることにした。そして朝は事務をこなし、午後は巡回家庭訪問、産気づいた島民には助産婦として夜通し献身的に奉仕する毎日。時にはいざこざの仲裁まで引き受けることも。
ある日、島の青年団長、大治郎の父親がフィラリア症に罹るが、既に手の施しようも無く息を引き取った。初子と共に駆けつけた獣医門馬の二人は無念の情に叩きのめされるが、これを機に門馬は獣医から医師への転進を決意し、初子は高知県庁や各地の大学病院を精力的に回り、フィラリア症の病理究明依頼に奔走する。 やがて乳児の死亡率も下がり、島民は初子へ全幅の信頼を委ねるようになり、心の溝は解消してゆく。
そんな折、保健婦初子に転勤の辞令が下りる。家族同様、いやそれ以上に信頼する初子の転勤に、全島民が涙し反対した。時を同じくして、フィラリア特効薬を携えた若いエリート医師高岡が島を訪れ、初子に求婚する。 心を一つにした島民と、別れの日がやって来る。 しかし初子は県の辞令よりも、若いエリート医師高岡との結婚よりも、何より島で人生を全うする決意を固めた。 孤島の太陽は今日も光り輝く。
キャスト
エピソード
- 荒木初子は本作の前年(昭和42年)、原作小説の発表と共に、フィラリア撲滅の功績に第1回吉川英治賞文化賞を受賞した。
- 荒木初子本人は、東京での本作完成試写会に出向いた直後、脳卒中で倒れ、そのまま都内で緊急入院。以後、半身不随となり保健婦を退職した。
- 退職後も沖の島で暮らし、島民や子供たちからは「アラキさん」、「初ねえさん」、「初子おばちゃん」と慕われ続けた。
- 沖の島ロケには、島民総出でエキストラ出演し、完成時にカットされた数多くの素朴な島民シーンがある。中にはエキストラを超えた個別撮影シーンも存在したが、本編には採用されなかった。
- NHK連続テレビ小説「おはなはん」主演で人気絶頂だった樫山文枝をはじめ、芦川いづみら日活大スターが僻地の孤島へロケに来る、という例は当時非常に珍しく、高知新聞による報道ほか県内では前代未聞の文化イベントとして現地ロケは注目された。
- 当時広瀬部落には「金子旅館」があったが、スタッフを収容しきれず一般民家に宿泊しながらの撮影が行なわれた。樫山文枝もその一人で、主演女優でありながらロケ中は地元小学校の教員宅に寄宿し、島民とのふれあいを大切にした。
- 広瀬部落の伝統行事「傘鉾」(カサボコ。地元では「カ」の発音にアクセント)が収録された三浦家の庭は、鎌倉時代から続くとされる島祖、三浦則久一族の本家。平地のない沖の島では沖の島小学校・中学校(小中併設)(現宿毛市立沖の島小学校)に次ぐ広い敷地であった。
関連書籍
- 「沖ノ島」よ私の愛と献身を 離島の保健婦荒木初子さんの十八年 伊藤 桂一著 講談社刊
関連項目
- 孤島
- 保健婦
- フィラリア
- 象皮病
- 乳児死亡率
- 風土病
- 衛生
- 公衆衛生
- 感染症
- 清掃
- 消毒
- 防除
- 風習
- 俗信
- 民間伝承
- 慣習
- 伝承
- 民俗学
- 民族学
- 人類学
- 感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律
- フジテレビ ドラマ版「孤島の太陽」