「ゲオルク (ザクセン王)」の版間の差分

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'''ゲオルク'''({{lang|de|Georg}}、[[1832年]][[8月23日]] - [[1904年]][[10月15日]])は、[[ザクセン王国]]の第6代[[国王]](在位:[[1902年]] - [[1904年]])。全名は''{{lang|de|Friedrich August Georg Ludwig Maximilian Karl Maria Nepomuk Baptist Xaver Cyriacus Romanus}}''。第4代ザクセン王[[ヨハン (ザクセン王)|ヨハン]]とその妃であった[[バイエルン国|バイエルン]][[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]の王女[[アマーリエ・アウグステ・フォン・バイエルン|アマーリエ・アウグステ]](1801年 - 1877年)の三男で、[[アルベルト (ザクセン王)|アルベルト]]の弟。
'''ゲオルク'''({{lang|de|Georg}}、[[1832年]][[8月23日]] - [[1904年]][[10月15日]])は、[[ザクセン王国]]の第6代[[ザクセン君主一覧|国王]](在位:[[1902年]] - [[1904年]])。全名は''{{lang|de|Friedrich August Georg Ludwig Maximilian Karl Maria Nepomuk Baptist Xaver Cyriacus Romanus}}''。第4代ザクセン王[[ヨハン (ザクセン王)|ヨハン]]とその妃であった[[バイエルン国|バイエルン]][[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]の王女[[アマーリエ・アウグステ・フォン・バイエルン|アマーリエ・アウグステ]](1801年 - 1877年)の三男で、[[アルベルト (ザクセン王)|アルベルト]]の弟。


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ゲオルクは陸軍に勤務し、[[1870年]]の[[普仏戦争]]にも従軍した。[[1888年]][[3月15日]]には[[元帥 (ドイツ)|陸軍元帥]]に任じられている。
ゲオルクは陸軍に勤務し、[[1870年]]の[[普仏戦争]]にも従軍した。[[1888年]][[3月15日]]には[[元帥 (ドイツ)|陸軍元帥]]に任じられている。


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[[1873年]]に父ヨハンの死去によってアルブレヒトが王位に即いた。彼には子供がおらず次兄エルンストも夭逝していたためゲオルクが王太弟となり、アルベルトが[[1902年]]に死去すると70歳で王位を嗣いだ。しかしゲオルクも2年後にドレスデンの[[ピルニッツ宮殿]]で死去。王位は長男のフリードリヒ・アウグスト3世が嗣いだ。

2010年7月24日 (土) 19:33時点における版

ゲオルク
Georg
ザクセン王
王太弟時代のゲオルク(フランツ・コプス画、1895年
在位 1902年6月19日 - 1904年10月15日

全名 フリードリヒ・アウグスト・ゲオルク・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・マクシミリアン・カール・マリア・ネポムク・バプティスト・クサヴァー・キリアクス・ロマヌス・フォン・ザクセン
出生 1832年8月23日
ザクセンドレスデン
死去 (1904-10-15) 1904年10月15日(72歳没)
ザクセンピルニッツ
埋葬  
ドイツの旗 ドイツザクセン州ドレスデンカトリック宮廷教会
配偶者 マリア・アンナ・フォン・ポルトゥガル
子女 マリー・ヨハンナ
エリーザベト
マティルデ
フリードリヒ・アウグスト3世
マリア・ヨーゼファ
ヨハン・ゲオルク
マクシミリアン
アルベルト
家名 ヴェッティン家アルブレヒト系
父親 ヨハン
母親 アマーリエ・アウグステ・フォン・バイエルン
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ゲオルクGeorg1832年8月23日 - 1904年10月15日)は、ザクセン王国の第6代国王(在位:1902年 - 1904年)。全名はFriedrich August Georg Ludwig Maximilian Karl Maria Nepomuk Baptist Xaver Cyriacus Romanus。第4代ザクセン王ヨハンとその妃であったバイエルン王マクシミリアン1世の王女アマーリエ・アウグステ(1801年 - 1877年)の三男で、アルベルトの弟。

1838年8月8日にヨハンの第五子としてドレスデンで生まれる。1859年5月11日リスボンポルトガル女王マリア2世の王女マリア・アナ(1843年 - 1884年)と結婚した。彼女との間にはマティルデ(1863年 - 1933年)、フリードリヒ・アウグスト3世マリア・ヨーゼファ(1867年 - 1944年、オーストリア大公オットー・フランツ・ヨーゼフ妃)、ヨハン・ゲオルク(1869年 - 1938年)ら四男四女が生まれた。

ゲオルクは陸軍に勤務し、1870年普仏戦争にも従軍した。1888年3月15日には陸軍元帥に任じられている。

1871年1月18日ヴェルサイユ宮殿で行なわれたプロイセン王ヴィルヘルム1世ドイツ皇帝戴冠式には、王太子であった兄のアルベルトとともに列席した。

1873年に父ヨハンの死去によってアルブレヒトが王位に即いた。彼には子供がおらず次兄エルンストも夭逝していたためゲオルクが王太弟となり、アルベルトが1902年に死去すると70歳で王位を嗣いだ。しかしゲオルクも2年後にドレスデンのピルニッツ宮殿で死去。王位は長男のフリードリヒ・アウグスト3世が嗣いだ。

先代
アルベルト
ザクセン王
1902 - 1904
次代
フリードリヒ・アウグスト3世