「アルベルト (ザクセン王)」の版間の差分
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'''アルベルト'''('''{{lang|de|Albert}}'''、[[1828年]][[4月23日]] - [[1902年]][[6月19日]])または'''アルブレヒト'''('''{{lang|de|Albrecht}}''')は、[[ザクセン王国]]の第5代[[ザクセン君主一覧|国王]](在位:[[1873年]] - [[1902年]])。全名は''{{lang|de|Friedrich August Albert Anton Ferdinand Joseph Karl Maria Baptist Nepomuk Wilhelm Xaver Georg Fidelis}}''。第4代ザクセン王[[ヨハン (ザクセン王)|ヨハン]]とその妃であった[[バイエルン国王|バイエルン王]][[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]の王女[[アマーリエ・アウグステ・フォン・バイエルン|アマーリエ・アウグステ]](1801年 - 1877年)の長男。 |
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アルベルトは[[1828年]][[4月23日]]にザクセン王太子ヨハンの第二子として[[ドレスデン]]で生まれた。ドイツの王子の通例に従って軍で教育を受ける一方、[[ボン大学]]でも聴講した。彼が初めて軍の指揮を執ったのは、[[1849年]]に第一次[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]](1848年 - 1852年)においてであった。 |
アルベルトは[[1828年]][[4月23日]]にザクセン王太子ヨハンの第二子として[[ドレスデン]]で生まれた。ドイツの王子の通例に従って軍で教育を受ける一方、[[ボン大学]]でも聴講した。彼が初めて軍の指揮を執ったのは、[[1849年]]に第一次[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]](1848年 - 1852年)においてであった。 |
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[[1873年]]に父王ヨハンが死去したためアルベルトは王位に即いた。しかし彼は政治に興味を持たず、「君臨すれども統治しない」立憲君主的な態度をとった。[[1897年]]にアルベルトは[[リッペ侯国]]の相続を巡る対立の仲裁人に指名された。 |
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アルベルトは[[1902年]][[6月19日]]に[[シレジア|シュレージエン]]のSibyllenort城で死去した。[[1853年]]に結婚した王妃の[[カロラ・ヴァーサ|カロラ]](1833年 - 1907年、[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン王]][[グスタフ4世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ4世アドルフ]]の王子[[グスタフ (ヴァーサ公)|グスタフ]]の娘)との間に子供はおらず、王位は弟のゲオルクが嗣いだ。 |
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== 関連項目 == |
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2010年7月24日 (土) 19:30時点における版
アルベルト Albert | |
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ザクセン王 | |
アルベルト(1902年) | |
在位 | 1873年10月29日 - 1902年6月19日 |
全名 | フリードリヒ・アウグスト・アルベルト・アントン・フェルディナント・ヨーゼフ・カール・マリア・バプティスト・ネポムク・ヴィルヘルム・クサヴァー・ゲオルク・フィデリス・フォン・ザクセン |
出生 |
1828年4月23日 ザクセン、ドレスデン |
死去 |
1902年6月19日(74歳没) プロイセン、ジビレノルト |
埋葬 |
ドイツ、ザクセン州ドレスデン、カトリック宮廷教会 |
配偶者 | カロラ・フォン・ヴァーサ=ホルシュタイン=ゴットルプ |
家名 | ヴェッティン家アルブレヒト系 |
父親 | ヨハン |
母親 | アマーリエ・アウグステ・フォン・バイエルン |
アルベルト(Albert、1828年4月23日 - 1902年6月19日)またはアルブレヒト(Albrecht)は、ザクセン王国の第5代国王(在位:1873年 - 1902年)。全名はFriedrich August Albert Anton Ferdinand Joseph Karl Maria Baptist Nepomuk Wilhelm Xaver Georg Fidelis。第4代ザクセン王ヨハンとその妃であったバイエルン王マクシミリアン1世の王女アマーリエ・アウグステ(1801年 - 1877年)の長男。
アルベルトは1828年4月23日にザクセン王太子ヨハンの第二子としてドレスデンで生まれた。ドイツの王子の通例に従って軍で教育を受ける一方、ボン大学でも聴講した。彼が初めて軍の指揮を執ったのは、1849年に第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1848年 - 1852年)においてであった。
1866年の普墺戦争でも、ドイツ連邦(オーストリア帝国)側についたザクセン軍を率いて従軍した。ケーニヒグレーツの戦いでは最左翼を担当し、粘り強く戦ったもののオーストリア軍の大敗を挽回することはできなかった。しかしこの戦争で、アルベルトは自らの軍事的才能に対する名声を確立した。戦争が終結し、ザクセン王国が北ドイツ連邦に加盟したのちに、彼はザクセンの兵士で構成される第12軍団の司令官に任じられた。
1870年に勃発した普仏戦争でもプロイセン王子フリードリヒ・カール麾下の第2軍で指揮を執り、同年7月11日にはザクセン初の陸軍元帥に任官している。8月18日のグラヴェレットの戦いでは、戦いを決定付ける最後の攻撃を行なった。その後、パリ進撃のための再編によって彼は第4軍の司令官に指名され、第12軍団の司令官は弟のゲオルクが引き継いだ。第4軍司令官となった後は、ル・ブルジェの戦いやヴィリエの戦いでフランス軍を破った。休戦が成立した後も彼はパリ占領軍司令官として同地に残った。
1873年に父王ヨハンが死去したためアルベルトは王位に即いた。しかし彼は政治に興味を持たず、「君臨すれども統治しない」立憲君主的な態度をとった。1897年にアルベルトはリッペ侯国の相続を巡る対立の仲裁人に指名された。
アルベルトは1902年6月19日にシュレージエンのSibyllenort城で死去した。1853年に結婚した王妃のカロラ(1833年 - 1907年、スウェーデン王グスタフ4世アドルフの王子グスタフの娘)との間に子供はおらず、王位は弟のゲオルクが嗣いだ。
関連項目
- ケーニヒ・アルベルト(SMS König Albert) - ドイツ海軍・カイザー級戦艦の5番艦。
- アルベルティーヌム(Albertinum) - ドレスデンにある美術館。
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