「耶律雅里」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
m編集の要約なし |
||
20行目: | 20行目: | ||
7歳の時に父帝から梁王に冊封される。 |
7歳の時に父帝から梁王に冊封される。 |
||
1122年2月に父・天祚帝が、入來山で[[金 (王朝)|金]]の[[阿骨打|太祖]]と戦って大敗し、[[長春]]に逃れた。すると翌3月、皇族の[[耶律大石]]が[[李処温]]らとともに、雅里の従大叔父の耶律淳を擁立し、勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げして「北遼」を建国してしまった([[天錫帝]])。しかし、天錫帝は6月に61歳で病没し、その未亡人の蕭徳妃普賢女が[[摂政]]となり、同母弟の[[皇太子]]の秦王・耶律定(天祚帝の五男)が擁立された。 |
1122年2月に父・天祚帝が、入來山で[[金 (王朝)|金]]の[[阿骨打|太祖]]と戦って大敗し、[[長春]]に逃れた。すると翌3月、皇族の[[耶律大石]]が[[李処温]]らとともに、雅里の従大叔父の耶律淳を擁立し、勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げして「北遼」を建国してしまった([[天錫帝]])。しかし、天錫帝は6月に61歳で病没し、その未亡人の[[蕭徳妃]](普賢女)が[[摂政]]となり、同母弟の[[皇太子]]の秦王・耶律定(天祚帝の五男)が擁立された。 |
||
しかし、翌1223年正月に金の太祖は都の[[燕京]]を陥落させ、大石らは蕭徳妃普賢女を奉じて、長春から、[[山西]][[雲州|雲中]]の陰山に移動した天祚帝のもとへ頼った。だが、天祚帝は自分に無断で、天錫帝を擁立し、「湘陰王」に格下げした理由で「おば」の蕭徳妃普賢女を翌月に処刑してしまった。 |
しかし、翌1223年正月に金の太祖は都の[[燕京]]を陥落させ、大石らは蕭徳妃普賢女を奉じて、長春から、[[山西]][[雲州|雲中]]の陰山に移動した天祚帝のもとへ頼った。だが、天祚帝は自分に無断で、天錫帝を擁立し、「湘陰王」に格下げした理由で「おば」の蕭徳妃普賢女を翌月に処刑してしまった。 |
2010年7月24日 (土) 01:54時点における版
姓名 | 耶律雅里 |
年号 | 神歴 |
廟号 | - |
字 | 撒鸞 |
諡号 | - |
生没年 | 1093年 - 1123年 10月 |
在位 | 1123年 |
耶律 雅里(やりつ がり、契丹音:ヤリュート・ヤーリ、1093年 - 1123年)は、遼の皇族。天祚帝の次男で、生母は蕭元妃(小字は貴哥。蕭奉先と蕭皇后の妹)。北遼の第3代皇帝(在位:1123年)。漢名は不詳。字は撒鸞(さんらん)。
7歳の時に父帝から梁王に冊封される。
1122年2月に父・天祚帝が、入來山で金の太祖と戦って大敗し、長春に逃れた。すると翌3月、皇族の耶律大石が李処温らとともに、雅里の従大叔父の耶律淳を擁立し、勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げして「北遼」を建国してしまった(天錫帝)。しかし、天錫帝は6月に61歳で病没し、その未亡人の蕭徳妃(普賢女)が摂政となり、同母弟の皇太子の秦王・耶律定(天祚帝の五男)が擁立された。
しかし、翌1223年正月に金の太祖は都の燕京を陥落させ、大石らは蕭徳妃普賢女を奉じて、長春から、山西雲中の陰山に移動した天祚帝のもとへ頼った。だが、天祚帝は自分に無断で、天錫帝を擁立し、「湘陰王」に格下げした理由で「おば」の蕭徳妃普賢女を翌月に処刑してしまった。
同年5月、天祚帝に絶望した大石ら遼の大臣たちは、再び「北遼」を建てて、父帝から自立した梁王・雅里をその皇帝に擁立して拝謁した[1]。しかし、梁王は同年10月に病没した。享年31。
そのため、大臣たちは天錫帝の太子だった耶律朮烈(英宗)を擁立した。
脚註
伝記資料
|
|