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== 概要 ==
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天保6年(1835年)(もしくは1836年)、現在の[[会津若松市]]に生まれる。実家は裕福な[[商人]]の家であった。少年時代から学問に没頭、18歳のときに[[江戸]]へ遊学し、そこで[[添川完平]]らに師事する。優秀な人物であったようで、[[文久]]3年([[1863年]])には[[幕臣]][[池田長発]]の[[侍講]]となって渡仏するほどであった。
[[天保]]6年([[1835]])(もしくは[[1836年]])、現在の[[会津若松市]]に生まれる。実家は裕福な[[商人]]の家であった。少年時代から学問に没頭、18歳のときに[[江戸]]へ遊学し、そこで[[添川完平]]らに師事する。優秀な人物であったようで、[[文久]]3年([[1863年]])には[[幕臣]][[池田長発]]の[[侍講]]となって渡仏するほどであった。


[[士族]]・[[佐原氏]]を継いだのは[[明治維新]]後であった。[[司法省]]に勤めたが、明治8年([[1875年]])、40歳で[[会津]]へ帰郷し、そこで教鞭をとる。明治17年([[1884年]])、[[日新館]]館長[[中条辰頼]]から依頼され、『白虎隊詩』をつくった。
[[士族]]・[[佐原氏]]を継いだのは[[明治維新]]後であった。[[司法省]]に勤めたが、[[明治]]8年([[1875年]])、40歳で[[会津]]へ帰郷し、そこで教鞭をとる。明治17年([[1884年]])、[[日新館]]館長[[中条辰頼]]から依頼され、『白虎隊詩』をつくった。


明治41年(1908年)、[[脳溢血]]のため死去、[[享年]]74。
明治41年([[1908]])、[[脳溢血]]のため死去、[[享年]]74。


== 関連項目 ==
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* [[白虎隊]]
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2009年11月7日 (土) 20:12時点における版

佐原 盛純(さわら もりずみ、天保6年(1835年)? - 明治41年(1908年12月4日)は、明治時代役人学者教師。字は業夫、通称は佐輔、貞一、号は蘇楳、豊山。旧姓は金上。

概要

天保6年(1835年)(もしくは1836年)、現在の会津若松市に生まれる。実家は裕福な商人の家であった。少年時代から学問に没頭、18歳のときに江戸へ遊学し、そこで添川完平らに師事する。優秀な人物であったようで、文久3年(1863年)には幕臣池田長発侍講となって渡仏するほどであった。

士族佐原氏を継いだのは明治維新後であった。司法省に勤めたが、明治8年(1875年)、40歳で会津へ帰郷し、そこで教鞭をとる。明治17年(1884年)、日新館館長中条辰頼から依頼され、『白虎隊詩』をつくった。

明治41年(1908年)、脳溢血のため死去、享年74。

関連項目