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'''クレイジー・ホース'''('''[[w:Crazy Horse|Crazy Horse]]''' (Tasunka witko) , [[1840年]] - [[1877年]][[9月5日]])は、[[インディアン]]部族の[[スー族]]に属する[[ラコタ]]の一支族、[[オグララ族]]の戦士。しばしば誤解されるが、酋長ではない。 |
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2009年10月10日 (土) 06:32時点における版
クレイジー・ホース(Crazy Horse (Tasunka witko) , 1840年 - 1877年9月5日)は、インディアン部族のスー族に属するラコタの一支族、オグララ族の戦士。しばしば誤解されるが、酋長ではない。
人物
父親(1810年生)はオグララ・スー族のシャーマンで、戦士ではなかった。母親ラトリング・ブランケット・ウーマン(1814年生)はシチャング(ブルーレ)・スー族だった。彼は幼い頃からシチャング族やシャイアン族のキャンプを出入りしていた。
彼の名は正式には「タ・シュンカワカン・ウィトコ(彼の奇妙な馬)」である。略して「タシュンケ・ウィトコ」と呼ばれることが多い。 幼児期は「くせ毛」と呼ばれていた。「タシュンケ・ウィトコ」は代々受け継ぐ名であり、手柄を立てればこの名が譲られた。彼の父も、この名が譲られるまでは「虫」と呼ばれていた。息子にこの名を譲った後、彼の父はまた「虫」という名に戻った。
少年時代から馬を盗む(インディアンにとっての栄誉あるスポーツである)のが非常に上手く、「ヒズ・ホーシズ・ルッキング(彼はすぐれた馬の見立てだ)」という名で呼ばれていた時期がある。
彼自身は、部族の儀式やしきたりに興味を持たず、参加もしなかった。放浪癖があり、しばしば姿を消し、瞑想に耽った。白人と接することを非常に嫌い、このため写真に写ることもなかった。彼の肖像は残されていない。が、その肌の色は非常に明るく、小柄だがハンサムだったという。少年時代の親友たちは、彼を「肌の明るい少年」と呼んでいた。
白人との戦いが激化し、「皮シャツを着る者」を選ぶ儀式が復活したとき、この名誉ある地位に任ぜられた四人の戦士のひとりとなった。が、これ以外に正式な地位にあったことはない。ひとつには、彼の家柄が部族の中では名門ではなく、また名門家のレッド・クラウドと反目しあう関係だったことがある。が、白人との妥協を拒む主戦派として主要な立場にあった。ちなみに、完全な個人主義であるスー族の文化には、戦法を誰かが指示するような「戦争指導者」という立場はない。
レッド・クラウドの姪であるブラック・バッファロー・ウーマン(ウィンヤン・ワカン・サパ)に恋焦がれていたが、レッド・クラウドは彼女をクレイジーホースの友人ノー・ウォーターと結婚させた。その後もクレイジーホースの想いは止まず、今で言うストーカー行為をしていた。
1870年、クレイジー・ホースは彼女と駆け落ちをしたが、ノー・ウォーターは彼らを追い、その日の晩には彼らを見つけ、二人が寝ているティーピーに押し入って、クレイジーホースの心臓目がけて銃を撃った。このとき、友人のタッチ・ザ・クラウドがとっさにノー・ウォーターを押さえたので弾は逸れて顔に当たり、クレイジーホースは大怪我を負った。完全個人主義のスー族では、女性が離婚するのはまったくの自由であり、ノーウォーターのこの行いは、スー族のしきたりを破るものである。長老たちはノー・ウォーターに賠償として馬を三頭クレイジー・ホースに譲らせ、またクレイジー・ホースも「皮シャツを着る者」の職を解任された。ブラック・バッファロー・ウーマンの4番目の娘は、非常に肌の色が明るく、恐らくクレイジー・ホースの子と思われる。
そののち、部族のとりなしでブラック・ショールという女性を妻に娶る。彼女は結核に罹り、彼女を親切に治療したヴァレンタイン・マクギリカッディ博士とは、白人としては例外的に友交を結んだ。マクギリカッディはクレイジー・ホースを看取った医者となった。また後に保留地監督官に任ぜられ、スー族を苦しめることとなる。
彼女との間に「ゼイ・アー・アフレイド・オブ・ハー(They Are Afraid of Her)」という娘をもうけたが、幼くしてコレラで亡くし、失意の中しばらく戦の場から離れる。二人目の妻には、ネリー・ララビーというシャイアン族とフランス人の混血女性を迎えた。
彼のヴィジョン
1854年、12歳の時にグラッタン中尉によってコンクァーリング・ベアー酋長たちが皆殺しにされるのを見た。これを契機に、一人で山に分け入り、ヴィジョン・クエストを行い、ヴィジョン(幻視)を得た。ヴィジョンの中で、ふわふわと影の様に踊り回る奇妙な馬に乗り、顔と体に不思議な模様を描いた男が現れ、彼に様々な啓示を与えた。父親の名もタ・シュンカワカン・ウィトコだったが、のちにこの夢のことを聞き、啓示のその中の男が息子だと確信して、すぐさま父親は自分の名を息子に譲ったのである。
このときの幻視で、二つのタブーを得た。それは「他人に腕を捉まれてはいけない」というものと、「自分のための物を持たない」というものである。このタブーを破った際、白人の頭の皮を剥いだことで大怪我をし、二度目は白人に腕を捉まれたことで刺殺されたのである。ノー・ウォーターに撃たれた際がどうだったのかは伝わっていない。
また、「常に質素ないでたちでいるように」との啓示も受けた。このため、彼の服装はいつも必要最小限で、彼を描いた映画や絵画にあるように、派手な羽根冠をつけて戦に出るようなことは一度もなかったとハンプやヒー・ドッグ、ブラック・エルクら近しい者たちは揃って証言している。「常に弱きものを助け、分け与えよ」との啓示を受け、生涯それを実行した。そのために、彼は部族の中の弱い立場の人たちから熱烈に愛された。
戦では負傷したことがないが、ジョン・ファイヤー・レイムディアーやレオナルド・クロウドッグによれば、これはクレイジーホースが最初のヴィジョンとともに不思議な力をもつ小石を得ていて、戦の際は必ず耳の後ろに挟んでいたおかげだという。
戦歴
1876年3月17日のパウダー川の戦い、同年6月17日のクルック将軍を退けたローズバットの戦いなどで活躍し、6月25日にはリトルビッグホーンの戦いでカスター中佐の大隊を全滅させたひとりとなった。
ほかの酋長・戦士がその地から逃亡する中、とどまって戦いを継続していたが、1877年5月6日にアメリカ政府に投降した。が、常に白人と距離を置く彼の姿勢は、保留地内で反乱分子視されることとなる。
その最期
1877年9月5日(合衆国陸軍の公式記録では6日。9日とする資料もある)、司令官との会談を申し入れられ、強引に連行された。が、連れていかれた場所は営倉だった。クレイジーホースは激しく抵抗し、元仲間だったリトル・ビッグマンとタッチ・ザ・クラウド、白人兵に押さえ込まれ、ウィリアム・ジェントルズという歩哨によって銃剣で刺殺された。36歳だった。
その遺体は親族によって持ち去られ、埋葬場所は公開されていない。
その他
現在、彫刻家のコルチャック・ジオルコウスキーとその家族達によって、ラシュモア山に彼の像を彫るクレイジー・ホース記念碑の事業が進行中である。が、クレイジーホースは肖像を残さなかったので、その肖像はあくまで想像のものであり、部族内ではむしろ正しい姿ではないとの指摘も強い。基本的に、スー族の伝統派はこの記念碑を、「クレイジー・ホースとスー族を侮辱するものだ」として批判している。
1994年、クレージー・ホースの名を使った米国のビール会社を一族が提訴。裁判所は一族の商標取り消し請求は却下し、会社側に15万ドル(約1600万円)の損害賠償支払いを命じている。その後もインディアンはこのビールの不買運動を続けている。
フランス、パリのストリップ劇場「クレイジー・ホース」は、羽根冠(インディアンにとって神聖な儀式の道具である)を着けた女性ダンサーのヌードショーを売り物にしている。
2004年、これに対してパインリッジ保留地の指導者アルフレッド・レッド・クラウド氏が、インディアンの羽根冠を着けて同店を訪問。「クレイジーホースは1800年代の戦いで米軍を破った偉大な戦士で一族の英雄だ」とし、「羽根飾りを着けた女性がヌードで登場するのをテレビで見てショックを受けた。一族の特使として来た」として店名変更を求め抗議した。が、店側は現在も応じていない。
『クレイジー・ホース (映画)(Crazy Horse)』、ケーブルテレビのターナー・ネットワーク・テレビジョンが1996年に制作したクレイジー・ホースの半生を描いたケーブルテレビのTV映画。
参考文献
- タイムライフ社 「インディアン」、「グレート・チーフ」
- めるくまーる社 「ブラック・エルクは語る」
- ライフ社 「クレイジー・ホース」