「村岡博人」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Zemarcelo (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
編集の要約なし
24行目: 24行目:
'''村岡 博人'''(むらおか ひろと、[[1931年]][[9月19日]]<ref name=n08>『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、607頁。</ref> - )は[[日本]]出身の元[[サッカー|サッカー選手]]。ポジションは[[ゴールキーパー (サッカー)|GK]]。
'''村岡 博人'''(むらおか ひろと、[[1931年]][[9月19日]]<ref name=n08>『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、607頁。</ref> - )は[[日本]]出身の元[[サッカー|サッカー選手]]。ポジションは[[ゴールキーパー (サッカー)|GK]]。


== 人物 ==
*[[1944年]]:[[師範学校|東京高等師範学校]]附属国民学校(現・[[筑波大学附属小学校]])卒業。
*[[1947年]]:東京高等師範学校附属中学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校|筑波大学附属中学校]])卒業。
*[[1950年]]:[[東京教育大学]]附属高等学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校|筑波大学附属高等学校]])卒業。
[[東京教育大学]]時代の1953年に、日本学生選抜に選出され[[ドイツ]]の[[ドルトムント]]で開催された国際大学スポーツ週間([[ユニバーシアード]]の前身)に出場した。なお、この選抜メンバーには[[長沼健]]、[[岡野俊一郎]]ら日本サッカー界の中枢となる人物が数多く参加していた。
[[東京教育大学]]時代の1953年に、日本学生選抜に選出され[[ドイツ]]の[[ドルトムント]]で開催された国際大学スポーツ週間([[ユニバーシアード]]の前身)に出場した。なお、この選抜メンバーには[[長沼健]]、[[岡野俊一郎]]ら日本サッカー界の中枢となる人物が数多く参加していた。


31行目: 35行目:


==所属クラブ==
==所属クラブ==
*[[東京教育大学|東京高等師範学校属高等学校]]
*[[東京高等師範学校]]附属高等学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校|筑波大学附属高等学校]]
*[[東京教育大学|東京教育大学/教大クラブ]]
*[[東京教育大学|東京教育大学/教大クラブ]]



2009年7月19日 (日) 05:03時点における版

村岡 博人
名前
カタカナ ムラオカ ヒロト
ラテン文字 MURAOKA Hiroto
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1931年9月19日
出身地 東京都
選手情報
ポジション GK
代表歴
1954 日本の旗 日本 2 (0)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

村岡 博人(むらおか ひろと、1931年9月19日[1] - )は日本出身の元サッカー選手。ポジションはGK

人物

東京教育大学時代の1953年に、日本学生選抜に選出されドイツドルトムントで開催された国際大学スポーツ週間(ユニバーシアードの前身)に出場した。なお、この選抜メンバーには長沼健岡野俊一郎ら日本サッカー界の中枢となる人物が数多く参加していた。

日本代表としては1954年3月7日のワールドカップスイス大会予選、対韓国戦で代表デビューを飾り、同年5月の第2回アジア競技大会に出場するなど国際Aマッチ2試合に出場した。

大学卒業後は共同通信社の運動部記者として活躍、1966年に出版した『これがサッカーだ』をはじめ、多くの著作を残した。

所属クラブ

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 2試合 0得点(1954)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1954 2 0 0 0 2 0
通算 2 0 0 0 2 0

著書

  • 『これがサッカーだ』 (至誠堂、1966年)
  • アルパド・チャナディ『チャナデイのサッカー』(訳書、ベースボール・マガジン社、1967年)
  • 『クラーマーのサッカー上達法 - みんな一流プレヤーになろう』 (講談社、1970年)

出典

  1. ^ 『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、607頁。

外部リンク