「本堂茂親」の版間の差分
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[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]では[[徳川家康]]に与する。父忠親・茂親は在国し、[[最上義光]]の指揮下に入って[[上杉景勝]]や小野寺領の一揆に対する征討戦に尽力している。[[1601年]]1月に[[伏見城]]勤番をつとめた後、同年6月、[[常陸国|常陸]][[新治郡]]志筑8500石に転封となる。 |
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[[1604年]]に[[江戸城]]の堀普請、[[1609年]]に[[笠間城]]勤番をつとめる。[[1614年]]の[[大坂冬の陣]]に徳川方として従軍し、翌年の[[大坂夏の陣]]では伏見城留守居役をつとめた。その後は[[駿河国|駿河]][[久野城]]御番や[[陸奥国|陸奥]]岩城城勤番、[[大坂城]]御番、[[甲斐国|甲斐]][[谷村城]]・[[甲府城]]勤番などを歴任する。 |
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[[1645年]]、死去。享年61。墓所は、[[茨城県]][[かすみがうら市]]の長興寺。 |
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2009年5月28日 (木) 23:32時点における版
本堂 茂親(ほんどう しげちか、1585年 - 1645年5月2日)は、室町時代後期から江戸時代初期の武将・旗本。常陸国志筑初代領主。伊勢守。
来歴
1585年、出羽仙北郡本堂城主本堂忠親の嫡男として生まれる。1590年の小田原征伐で、父忠親はいち早く小田原の豊臣秀吉のもとに参陣し、戦後は8983石余を領する小名となった。のち、家督を相続する。
1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康に与する。父忠親・茂親は在国し、最上義光の指揮下に入って上杉景勝や小野寺領の一揆に対する征討戦に尽力している。1601年1月に伏見城勤番をつとめた後、同年6月、常陸新治郡志筑8500石に転封となる。
1604年に江戸城の堀普請、1609年に笠間城勤番をつとめる。1614年の大坂冬の陣に徳川方として従軍し、翌年の大坂夏の陣では伏見城留守居役をつとめた。その後は駿河久野城御番や陸奥岩城城勤番、大坂城御番、甲斐谷村城・甲府城勤番などを歴任する。
1645年、死去。享年61。墓所は、茨城県かすみがうら市の長興寺。
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