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2009年1月30日 (金) 19:24時点における版
楊 善徳(よう ぜんとく、簡体字:杨善德、繁体字:楊善德、ピンイン:Yáng Shàndé、1873年 - 1919年8月13日)は、中国の清代末期から中華民国時代にかけての軍人。字は樹堂。安徽省懐寧県の人。清朝、北京政府、安徽派の軍人。
事跡
北洋武備学堂第11期を卒業し、以後新建陸軍で軍歴を重ねた。光緒30年(1974年)に第2鎮第5標標統、光緒32年(1906年)に第4鎮第7協協統、光緒34年(1908年)に浙江新軍混成協協統、宣統2年(1910年)に浙江第41協協統、宣統3年(1911年)に第4鎮第7協協統と歴任している。
中華民国成立後、軍制改組に伴い、第4鎮は第4師に改組され、楊善徳が同師長に昇進した。民国2年(1913年)9月、江蘇松江鎮守使に就任し、民国4年(1915年)11月、上海鎮守使を暫行兼任署理して、まもなく淞滬護軍使兼江蘇軍務会弁に遷った。その翌月に袁世凱が皇帝に即位すると、一等伯に封じられた。
袁世凱死後、楊善徳は段祺瑞率いる安徽派に属した。民国6年(1917年)1月、浙江督軍に任命され、段が大総統黎元洪により国務総理を罷免されると、段を擁護するために楊は浙江省独立を宣言した。同年7月、段の復権と共に、そのまま独立を取り消している。
民国8年(1919年)8月13日、在任中に病没。享年47。
参考文献
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