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[[潼関の戦い]]以降に、曹操に大敗した[[馬超]]の攻撃を受けて冀城に立て籠った。包囲は8ヶ月にも及んだが、曹操軍の援軍は来ず、韋康はそのまま攻められ、捕らわれて殺害された(後に[[楊阜]]が馬超の妻子を処刑し韋康の仇を討つことになる)。
[[潼関の戦い]]以降に、曹操に大敗した[[馬超]]の攻撃を受けて冀城に立て籠った。包囲は8ヶ月にも及んだが、曹操軍の援軍は来ず、韋康はそのまま攻められ、捕らわれて殺害された(後に[[楊阜]]が馬超の妻子を処刑し韋康の仇を討つことになる)。


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2008年12月5日 (金) 18:57時点における版

韋康(い こう、? - 212年?)は、後漢末期の人。字は元将。京兆(陝西省西安の西)の人。父は韋端、弟に韋誕

父・韋端が涼州牧から召されて太僕となると、曹操配下の重臣荀彧の推挙を受けて、父に代わって涼州刺史となる。「建安の七士」の一人の孔融は、彼を「底知れぬ才能が輝き渡り、度量大きく、意志強く、世に優れた人材」と賞した。

潼関の戦い以降に、曹操に大敗した馬超の攻撃を受けて冀城に立て籠った。包囲は8ヶ月にも及んだが、曹操軍の援軍は来ず、韋康はそのまま攻められ、捕らわれて殺害された(後に楊阜が馬超の妻子を処刑し韋康の仇を討つことになる)。