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Jesudonbay (会話 | 投稿記録)
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===教団の三大「聖地」と建物 ===
===教団の三大「聖地」と建物 ===
≪箱根、熱海、京都の規模と大まかな環境の説明≫
≪箱根、熱海、京都の規模と大まかな環境の説明≫

== 教団の発祥 と教団史==
≪信者でも教団の歴史を知らない者も多い様子。また離脱した教団信者の中でも岡田茂吉や世界救世教の考えというか教えなどを、閉ざされて教えてもらえないという人も多くいると聞く。多少箇条書き程度の説明はあったほうがいいかと、思案≫

*世界救世教創始者、教祖・岡田茂吉は明治15年(1882)12月23日に東京浅草で細々と古美術商を営む家に生まれた。
*画家を志し東京美術学校(現・東京芸大)に進んだが病弱のため中途退学。この病弱なために、その後の20年の期間に:様々な病気を経験し人生が大きく変わっていった。
:この長年の体験から薬には害もあるという「薬過薬害」という思想を持つに至る。
:大学中退後、身具(アクセサリー)製作と販売の「岡田商店」を東京駅八重洲に構える。
:稀に見る美術の才能と商才に長けていた岡田茂吉は事業も順調で、時の博覧会に出品した「旭ダイヤ」(鏡を小さくした:ものをデコのように張り合わせた装身具)は大変好評でああった。デコの創始者と言えるかも知れない。

*大正8(1918)年に世界恐慌があり岡田商店のメインバンクであった取引先銀行が倒産したため、事業の資金繰りが行き詰:まり莫大な借金を背負い破産。また同年妻子を失うという不幸に見舞われた。
兼ねてから親交があった知人に「大本教」に誘われ翌年の大正9(1919)年、岡田茂吉38歳のときに大本教の信者となった。

*※第一次[[大本教弾圧事件]](大正10年)政府は・・・・大本に対して弾圧を加えていた。
:岡田は地道に布教活動しながら、事業の再建を図っていたが不幸が度重なるように大正12年の[[関東大震災]]で事業は縮小せ:ざるを得なった。

*大正15(1925)年、同時期には心霊研究に没頭する毎日が続くようになり、神の啓示により「神智と神力」(浄霊法)を:授かったとされる。
:昭和に入り事業を番頭に任せて自らは大本の布教と浄霊法の研究に没頭する。
*昭和6年、千葉県「鋸山」での修行中に天啓を受け、「夜昼転換」(やがて今の世の中のような夜が終わる時代に差し掛かっていて、これからの時代は昼のような明るい世の中にに向かうので、昼の世界では悪事や不正は太陽の下すぐに暴露されるであろう)とする独自の史観であり、現代を末法とする仏教とは逆の思想を悟る。
:岡田は、この「夜昼転換」の悟りから、これまでの物質偏重主義を改め宇宙創造神とのつながりに重きをおき、精神世界とのバランスのとれた新しい文明を創造することを自らの使命として宗教活動に身を投じることとなる。
*昭和9(1934)年、岡田はこのような経緯にて形成された独自の思想を実践すべく大本を脱退。
*昭和9年5月1日に東京麹町平河町にて民間治療所「岡田式神霊指圧療法」を開業。
*翌10年(1935)1月1日「大日本観音会」を発会させ立教を宣言。麹町山元町に本部を置く。
*同年10月1日玉川、上野毛に移転。「玉川郷」とする。

教団教義の主幹は、病、貧、争の三大苦を根絶した「地上天国」をこの世に建設することにおかれており、そのためには物質偏重の現代文明を正しい方向へ導くことが第一であるとしている。つまり、人類の不幸の原因は神を信じず、自然界の生命活動を無視したところからきているのであり、これを正すために浄霊、自然農法、芸術活動、真理を具現化する社会作りがその活動主体であるとした。

*同年1月23日:機関紙「東方の光」(旬刊)発刊。
*同年2月4日:機関紙「光明世界」(月刊)発刊。
*同年10月1日:大日本観音会本部を東京・玉川の上野毛に移転 (玉川郷)
*昭和11年(1936)2月:教祖、慣行農法である肥料栽培の弊害を予知し、みずから玉川郷の芝庭を耕し、菜園10アールの自然農法試作を始める。
*同年5月15日:岡田自らが書いた「光」の文字を信者が首からさげることで誰もが「浄霊」をすることが出来るとしたことなどがインチキ医療行為とされ、官憲から宗教活動と医療行為の分離を求められ「大日本健康協会」を設立したが同年7月28日に療術行為禁止令を受け自然解散した。
岡田は小冊子「明日の医術」「健康」などを刊行し薬害、薬禍について警告したことが更に官憲の檄に触れ、医師法違反で大宮署、玉川署に拘留される。
それを期に「大日本観音教団」を解散。
同年9月治療行為、宗教行為禁止令を受ける。官憲の圧迫により、宗教行為と治療行為の分離を迫られ「大日本健康協会」を設立。
 教祖、小冊子「明日の医術」、「健康」を刊行して薬害・薬禍を警告し健康の真理を発表。
*同年7月28日:療術行為禁止令を受け「大日本健康協会」は自然解消となる。
*同年8月:官憲の弾圧が厳しさを加え、教祖、医師法違反の容疑で大宮署、玉川署へ拘留される。
  この事件直後、「大日本観音会」は自発的に解散(第一次玉川事件)
*同年9月:治療行為も宗教行為も禁止との命令を受ける。
*昭和12年(1937)10月22日:治療禁止令を解除され、「岡田式指圧療法」開業。
*昭和13年(1938):教祖、自然農法水稲の試作を開始。翌昭和14年確信を得る。
*昭和15年(1938)11月:教祖、玉川署に再拘留。療術行為廃業の命を受ける。(第二次玉川事件)以後廃業して弟子の養成に専念。
*昭和16年(1941):教祖、顕官、実業人などの強い要望により、当局の許可を得て治療を再開。
*昭和17年(1942):教祖、「明日の医術」初版(二巻)のほか、順次、健康問題の書物を発刊。
*昭和18年(1943):「日本浄化療法」を設立。
         教祖、自然農法の普及を積極的に開始。
         また将来の芸術活動にそなえ美術品の収集を開始。
*昭和19年(1944)5月5日:教祖、神奈川県箱根強羅へ移転。聖地「箱根神仙郷」の建設を開始。
*同年10月5日:教祖、熱海市東山へ移転、宗教活動の拠点とする。「東山荘」(とうざんそう)

≪加筆中≫

戦後、信仰の自由は憲法下で守られることとなったことで、何人も宗教の自由が認められるようになった。
岡田は信者からの寄付などを元手に、本拠地を東京から箱根町強羅に移し「日本観音教団」を設立(昭和22年)
本格的に宗教活動を再開し昭和25(1950)年に宗教法人の認可を受ける。
認可とともに「世界救世(メシヤ)教」と改称。その間、岡田は地上天国の雛型として本拠地強羅の「神仙郷」
(しんせんきょう)、熱海の「瑞雲郷」(ずいうんきょう)建設計画を進める。
神仙卿は昭和22(1947)年の「観山亭」(岡田の活動主体となる住居)の建設にはじまり、昭和27(1952)年の
「箱根美術館」落成で完成。「箱根美術館」の開館式には

箱根美術館の完成後、熱海・瑞雲郷の建設のため拠点を熱海市内に移す。しかし岡田は瑞雲郷の完成を見ず
昭和30(1955)年2月10日に他界。
岡田氏の夫人、よしこが二代教主に就任し昭和32(1957)年に「世界救世(きゅうせい)教」と改称。
岡田の遺志を継ぎ瑞雲郷を完成させ、昭和36年に同地に「救世神殿」を完成させた。

昭和46年には神仙郷に、それぞれ神殿を完成させている。しかし残念なことに、岡田が昇天
した後教団は分裂を繰り返し、いくつもの派生教団が誕生した。昭和40年代、教団の運営方針
が変更されたことに異を唱えた支部・教会が別の教団として分離独立、その数は30団体以上に及ぶという。
派生教団としては神慈秀明会、黎明教会、浄霊教会などがあり、いずれも岡田茂吉を明主様と仰ぎ、浄霊をは
じめとする教義もほぼそのまま継承されている。

*平成4年(1992)三代教主 岡田 斎退位、四代教主 岡田陽一就任

--[[利用者:Jesudonbay|Jesudonbay]] 2008年8月5日 (火) 02:59 (UTC)

2008年8月5日 (火) 15:55時点における版

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こんにちは。ウィキペディアへのご寄稿ありがとうございます。Jesudonbayさんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、プレビュー機能のお知らせに参りました。投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。

これを使うことで

などをあらかじめチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点については、同じ記事への連続投稿を減らすの項目に説明がありますので、よろしければお読みください。また、ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。--海獺(らっこ) 2008年7月16日 (水) 02:54 (UTC)[返信]



失礼します

ノート:箱根美術館を拝見しました。まずはご不興を呈しました点、お詫び申し上げます。ただ、該当記事は、私以外のユーザーにより「即時削除相応」の申請がなされ、それを確認した私が受理し、対処したという流れになっております。従って、本件はWikipedia日本語版コミュニティーのルールと一定の意思に基づく裁定であった点だけはご了解ください。

さて、箱根美術館。記事として成長しているようで嬉しく思います。私も見学したことがあります(熱海のMOA美術館も、岡田茂吉氏の別荘もうかがいました)。ぜひ、今後とも、加筆をお願いいたします。箱根美術館といえば、誰もが知ってる、あの埴輪ですよね。展示品の紹介、解説、さまざまな企画展、特別イベントの詳細などもぜひぜひご加筆ください。それでは失礼します。--アイザール 2008年8月3日 (日) 17:44 (UTC)[返信]

ご連絡と励ましの言葉、心から感謝申し上げます。経緯については了解いたしました。コミュニティルールを優先されるよりもWikipediaルールを優先して頂きたかったというのが本音です。続きを書こうとしたらページがまったくない。何でだ。と誰でもなります。ましてWikipediaの編集知識も能力も乏しい者がいきなり全部削除されたら「何か悪いことをしたのだろうか」と思いますよ。Wikipediaのヘルプで何度も照らし合わせ悩みましたよ。ヘルプによると何も連絡もなしで削除することは「個人いじめ行為」「荒らし」に該当します。また、編集するものは記事を育むように努めてくださいとあります。このWikipediaのルールから言えば警告や助言もなくいきなり全項目削除は確実に違反だと思っています。

らっこさんが補助してくださり大変助かりました。拾う神ありという心境です。

加筆についてはより詳しく展示内容や特色などをメモ帳にて下書きしているところです。また間違った記載がないように箱根美術館やMOA美術館に問い合わせたりして進めています。写真などの掲載も許可を頂ける様にお願いもしています。末尾で失礼ですが激励ありがとうございました。--Jesudonbay 2008年8月4日 (月) 07:01 (UTC)[返信]

ノート:世界救世教について

とりあえず、いまは教団史の項目だけの議論だけにして、それ以外の部分はやめませんか?(一回、消しませんか?)。ノート:世界救世教がこのままだとぐちゃぐちゃになります。 --Brandy of plum 2008年8月5日 (火) 14:35 (UTC)[返信]

ごめんなさい。やはりどうにもならないので消しました。まずは教団史の、しかも具体的内容よりも方針の話をやりましょう。消した文はここに貼り付けます。私のコメントも入っていますのでご参照下さい。それ以外は、ちょっとずつやりましょう。そうしないと議論がぐちゃぐちゃになるからです。

--Brandy of plum 2008年8月5日 (火) 14:49 (UTC)[返信]




草稿、校閲、修正、加筆

≪テンプレートにしてもいいかと思います≫

正式団体名 :宗教法人 世界救世教(せかいきゅうせいきょう) 立教 1935(昭和10)年 開祖・教祖 :岡田茂吉(おかだ・もきち) 信者尊称=「明主様(めいしゅさま)」 現指導者: 四代教主 岡田陽一 本拠地:  静岡県熱海市桃山町26-1 崇拝対象: 大光明真神(みろくおおみかみ) 信徒数概算(海外含む) 100万人

 以前書いた通り、「大光明真神」は世界救世教の解説として不適切です。昔はそうだったという記述は意味がありません。信者は海外だけで100万人を越えているので(タイ66万人、ブラジル40万人)この人数は正しくありません。

--Brandy of plum 2008年8月5日 (火) 14:11 (UTC)[返信]


関連団体: 財団法人「MOA美術館」、財団法人「箱根美術館」

財団法人「自然農法開発センター」、財団法人「環境科学総合研究所」

世界救世教

静岡県熱海市に本拠点がある宗教団体。一般的には「おひかりさん」として有名。 スローガンは「地上天国建設」で現世至福論を根幹とし、宗教団体でありながら現代的な思考を持っている。

 こういう記述は主観的でWikipediaには不適切です。全体的にこういった主観的な記述が多いように思います。 --Brandy of plum 2008年8月5日 (火) 14:11 (UTC)[返信]

「自然農法」 岡田が昭和10年から提唱し普及している、無肥料無農薬の農法。

また、文化芸術に関しても、この教団の特異性が見受けられる。教祖の眼力で昭和10年代から蒐集した美術品、尾形光琳作「紅白梅図屏風(紙本金地著色紅白梅図)」、野々村仁清作「色絵藤花文茶壷」、「手鑑翰墨城」国宝3点をはじめ重要文化財65点、重要美術品など含め3000点余りの所蔵品を熱海市にあるMOA美術館と箱根町強羅にある箱根美術館にて展示している。

 美術品自慢よりも、なぜ美術が重要視されているのかという思想背景の方が重要ではないでしょうか。--Brandy of plum 2008年8月5日 (火) 14:11 (UTC)[返信]

「浄霊」

  • 岡田茂吉は大本教の出口王二三郎に師事し幹部までになった人物であるが、大本に学びながら独自の心霊研究を進めていた。他の大本教の幹部などの反発もあり心霊研究に没頭するため大本を離脱した後「浄霊」という画期的なヒーリング法を生みだす。

岡田は、病気とは霊、魂が曇るところから生じるものであるとし、手をかざすことによって神の光を放射し、霊の曇りを取り除くことで、自ずから病は癒えるとする浄霊を提唱した。なお、浄霊という言葉は岡田による造語である。

  画期的、とかは主観的です。大本のくだりは不要でしょう --Brandy of plum 2008年8月5日 (火) 14:11 (UTC)[返信]
  • 「おひかり」は教祖の念(魂)が入った(教祖が書いた「光」という書)半紙に書かれた書で、それを絹の袋に入れ錦糸刺繍の外袋で覆いビニールのカバーをつけた約10センチ角のものに絹の紐で首から下げるものであったが、紙、布であるため汗で中が濡れる、また衣服の上から「おひかり」が見えて現代に適合していないとして、昭和49年に、「おひかり」の書をマイクロフィルムとしたものに変更し、それを2重構造を持つカプセル形に変更をした。

カプセルは合金に金メッキであったが腐食が早いため、教団幹部は信者に公表することなく自分達のみ18kの金カプセルとしたようだ。その後は一般信者も購入できるようになった。

 これは必要のない情報でしょう。これよりも必要な情報は、現在のおひかりは、チタンかセラミックであるということでしょう。そもそもおひかりの入れ物の説明は不用でしょう。光の文字をかけて浄霊をするということをまず書き、その入れ物は、昔は絹袋、現在はチタンかセラミックであることを書けばよく、途中経過は不要でしょう。--Brandy of plum 2008年8月5日 (火) 14:11 (UTC)[返信]


全体を通じて、長すぎて不要な装飾が多いと思います。「岡田茂吉がそれをはじめたときの考え」を短く書き、必要ならば「(三派に気を使った内容で)現在はこうである」ということを書けば十分で、途中の状況はあまり必要ないと思います。また、主観的な「画期的」とか「現代的」とかはWikipediaなので書かない方がいいでしょう。--Brandy of plum 2008年8月5日 (火) 14:11 (UTC)[返信]

教団の特徴

【離脱、分派、派生教団が特に多く目立つ教団】

  • 日本の終戦後の新興宗教として5大宗教にあげられる。大本の幹部だった岡田茂吉(1882-1955)が立教した教団だが教祖前中から教祖死去以降に離脱、分派、派生教団を多く見られるのも、この教団の特色と言える。

それは、強大なカリスマ性を有していた教祖の死去という事件が、教団に大きな動揺をもたらしたことに端を発し、教祖の死去以降、教団の変革が激しく行われたため、教義上の理由から反対する余地が多かったことや、教団の変革のなかに各教会に経済上の不利益を課すものがあったこと、また、改革以前は傘下の教会は独立採算制度であったがため離脱しやすかったと同時に、各々の教会主宰者自身のカリスマ性が強かったことなどが、こうした分派活動を促した側面があると言える。

事実、分派が目立ったのは、激しく変革が行われた岡田茂吉死去の1955年以降(晴明教・世界浄霊会など)と、教団運営の中央集権化が図られた1970年以降(救世神教・神慈秀明会など)に多い。

上記団体以外にも世界真光文明教団や崇教真光など「真光系」と呼ばれる教団も、教祖である岡田光玉が世界救世教の布教師として活動していたことや、教義の酷似性などから、一般的には世界救世教の分派として捉えられている(真光系教団は、教 祖が世界救世教の布教師として活動していた事実を公表はしていない)。

ネット検索ではカテゴリーで「手かざし系」「真光系」で世界救世教の分派・派生教団が多く検索できる。

【「自然農法」を普及させた教団 】

今でこそ、自然農法だの有機農法だのと食物に関心を持つようになったのは、つい最近のことであるが、この教団は教祖の発想で昭和10年から「食は健康の基本」として食による健全化を実施研究し普及に努めてきた。よく見かける「自然農法産、米 40年」とか「30年」というものは、この当時に入信した農家の人が多い。 関連に「自然農法開発センター」「大仁、石垣島、北海道、海外?などの実験農場」「自然農法大学」などがある。

≪ここが重複するところで整理つかないところです、世界救世教の中=美術館=岡田茂吉≫


【文化芸術活動としての美術館】

【美術を重要視する教団】 --Brandy of plum 2008年8月5日 (火) 14:23 (UTC)[返信]

*岡田茂吉は東京美術学校(現・東京芸大)に進むほど美術は優れていた人物であったようだ。 特に「蒔絵」には対しては並々ならない思いがあったと伺える。残念なことに「蒔絵」にとっては大事な利き手である右指の筋を工芸作成中に切ったため「蒔絵師」になることを 諦める。また岡田茂吉は生まれながら身体が弱く当時、結核にかかり学校を中退している。 その後、天性的な美の持ち主であったようで、彼が好んだ琳派のデザインを幾つも残している。 また将来の実業家でもあった彼は小間物問屋「光琳堂」を昭和  に設立させ、当時の博覧会に彼のデザインした「旭ダイヤ」を出品し好評を博した。この「旭ダイヤ」の売り上げが「光琳堂」を更に大きくさせ、後に「岡田商店」と名を改めた。

その岡田茂吉が芸術関連で影響を受けたとされるのが、大本教の出口師である。両者とも芸術を重んじ、陶芸、書道、文学に多彩な知識と能力を持ち合わせていたため意気投合していたようだ。 岡田茂吉は大本から脱退後、芸術と宗教の一体化を図り、世界救世教が大教団に発展するとともに彼が持つ美への眼力とでも言うか後に国宝や重文になる一流芸術品の蒐集を始めた。 特に第二次大戦終戦前に至っては、日本の貴重な美術品が進駐軍にて没収、蒐集されているのを食い止めるためより多くの美術品を蒐集をした。現在、国宝となっている仁清作の「藤花文茶壷」が入手でき手元に届いたのが岡田茂吉死去する2日前のことだった。

岡田茂吉の死後、生前中に口述記録された構想に従い、熱海の聖地「瑞雲郷」にある建物「救世会館」の一角に仮住まいとして「熱海美術館」が会館された。

教団は岡田茂吉の構想を実現させるため、財団法人「M.O.A(エム・オー・エー)美術文化財団」を1980年に設立させた。 M.O.A とは Mokichi Okada Association の頭文字をとったもので、岡田茂吉の思想と実践を宗教団体の枠組みを超えて世界に伝え、その活動の母体となることが財団の設立主旨。

「箱根美術館」「MOA美術館」の管理団体。

箱根美術館は教祖自ら設計し昭和27年に開館した。開館に際しての来賓には、、、、、などが招かれ各人が記帳された来賓簿は大切に保管されている。 MOA美術館は熱海の教団聖地の建物の一角にあった「熱海美術館」後の「熱海救世美術館」が前身である。同美術館は教祖生前中よりの構想にて足掛け30年近くの歳月を要し1982年に完成した。

1997年には同館購入の「レンブラントの自画像」の真贋を巡ってマスコミに取りざされている。結局、所蔵のものが本物であると判明。

 この解説は全体が不要だと思います。何でもかんでも書けばいいってものじゃない。教義で美術鑑賞と美術館が重要であることを短く書けばそれで十分。--Brandy of plum 2008年8月5日 (火) 14:23 (UTC)[返信]


  • 財団法人・日伯美術連盟はメキシコにある教団の施設「教会」と現地との交流の中から生まれたもので、目的の概要は「日伯両国の美術及び美術家の交流による両国文化進展及び平和親善に寄与すること」

として昭和48年10月23日に設立。初代理事長は東郷青児である。

【ボーイスカウト】

教団の三大「聖地」と建物

≪箱根、熱海、京都の規模と大まかな環境の説明≫