岡田茂吉

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おかだ もきち
岡田 茂吉
生誕 1882年12月23日
東京府浅草区橋場町
死没 (1955-02-10) 1955年2月10日(72歳没)
職業 宗教家
文明評論家
書家
画家
歌人
華道流祖
造園
建築家
美術収集家
著名な実績 自然農法
世界救世教
箱根美術館
MOA美術館

岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年明治15年〉12月23日 - 1955年昭和30年〉2月10日)は、日本の新宗教世界救世教の教祖である。宗教家文明評論家書家画家歌人華道流祖、造園家、建築家美術収集家

箱根美術館、救世熱海美術館(現:MOA美術館)などを創設した[要出典]

経歴[編集]

生い立ち〜青年期[編集]

1882年明治15年)、東京府浅草区橋場町(現在の東京都台東区橋場)にて誕生[要出典]。日新尋常小学校を経て、浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学する。画家を志し、1897年(明治30年)9月に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備ノ課程に入学するも、眼の病に侵されて中退[要出典]

青年期には商売で成功する。だが、過労をきっかけとして多数の病気[1]にかかり3回入院、不治の宣告を2回受ける。そのような体験の中で薬物の持つ副作用に気付き、医薬品や医者に頼らない、自然治癒力を重視した生活様式を築き上げていった[要出典]

小間物屋「光琳堂」、装飾品卸商「岡田商店」、映画館経営などの事業を行い順調に収益を上げたが、取引先銀行の破産で事業が頓挫。さらに妻が流産や死産を繰り返し、やっと妊娠した子も5か月で死亡、先妻も死去するなど不幸が重なる。慈善は好きだが宗教は根っから嫌う無神論者であったが、不幸が続くことで人間の力の儚さから救いを求め、様々な宗教の講話を聴く。ただし、信仰を勧められるも心は向かなかった[要出典]

大本教入信と脱退[編集]

1920年大正9年)、大本教に入信[要出典]

1926年昭和元年)12月のある晩、お腹に光り輝く玉が入るといった神秘体験をし、自己の使命を悟る[要出典]

第一次世界大戦後の経済大恐慌時には株式会社を経営していたが、株が一斉に暴落したのに伴い自身の事業も大打撃を受け継続困難となる[要出典]

1931年(昭和6年)、千葉・鋸山の山頂にて神秘体験を得たのち、岡田式神霊指圧療法(後に浄霊になる)を開始するも、大本教の方針と異なるとの批判を受け、1934年(昭和9年)に大本教から離れる[要出典]

大日本観音会創設[編集]

1935年(昭和10年)1月1日に「大日本観音会」を発会し、地上天国建設を目的として立教を宣言。麹町山元町に本部を置く(これが後に世界救世教となる)。同年10月1日東京都世田谷区上野毛の玉川郷(後に宝山荘)にて、栽培実験と研究を通して自然農法の根本原理や食の重要性について説く。後に実現する美術館構想はこの玉川郷時代に生まれた[要出典]

1936年(昭和11年)、官憲の圧迫により宗教行為と治療行為の分離を迫られ、5月15日に「大日本健康協会」を創立。一般人や他宗の人たちにも浄霊の恩恵に与ってもらいたいと考え、宗教と治療の2団体を活動の両輪とした。現在でいうところの統合医療による療院(病院)構想もしている。同年9月、警視庁より療術行為禁止令が出て解散する。後年、科学として世に問いたいが、宗教なるが故に浄霊の効果を正しく認識してもらえないことを訴えている[要出典]

1944年(昭和19年)、戦火が激しくなり、東京から箱根の強羅へと居を移し、神仙郷と名付ける。熱海にも居を構える。1947年(昭和22年)には静岡県熱海で宗教法人「日本観音教団」として教団を再出発し、1948年(昭和23年)に無肥料栽培の論文を発表。1949年(昭和24年)には宗教法人を「日本五六七教」発足する[要出典]

世界救世会創設〜晩年[編集]

1950年(昭和25年)2月4日「日本観音教団」「日本五六七教」を解散し、宗教法人「世界救世(メシヤ)教」を発足。この頃から初期風俗画肉筆浮世絵が収集の対象となる。浮世絵研究家近藤市太郎との出会いが、その後の肉筆浮世絵の研究、収集の契機となった。同年5月29日、熱海の世界救世教本部が脱税贈賄などの容疑で捜索を受け、岡田も検挙された[2]

1952年(昭和27年)、箱根美術館を開設。この頃、旧神田鐳蔵コレクションの存在を知り、さらに肉筆浮世絵の収集内容の充実が図られた。1953年(昭和28年)には『自然農法解説書』など著書を数点出版。尾形光琳の紅白梅図[3]を入手する。1954年(昭和29年)、これまでのコレクションをもとに、日本橋三越において『肉筆浮世絵名品展』を開催、60余点の名品が公開された[要出典]

1955年(昭和30年)2月8日には野々村仁清の色絵藤花図茶壺[3]を入手するも、同年2月10日に72歳で死去。1957年(昭和32年)、岡田の収集品をもとに、箱根美術館の姉妹館として熱海美術館が開設された(後に「救世熱海美術館」と改称、現在のMOA美術館[要出典]

家族[編集]

父母兄弟

  • 父:喜三郎
  • 母:登里
  • 姉:志
  • 兄:武次郎

  • 岡田よし

自然農法[編集]

岡田の説く自然農法とは、有機肥料や化学肥料を使用せず、土を清浄にして栽培することで、土壌本来の力を発揮させ、その地域の住民や家畜の自給自足できる量の作物が得られるというものである[要出典]

1942年(昭和17年)には、米、水稲、小麦、大豆、花、果樹、野菜などの無肥料栽培を研究。1948年(昭和23年)、『無肥料栽培』と題する論説文を発表した。

1950年(昭和25年)、岡田の農法は「自然農法」という名称に統一された[4]

著書[編集]

  • 『東方の光』(旬刊、昭和10年1月23日)
  • 『明日の医術』
    • 一(昭和11年5月15日)
    • 二(昭和17年)
  • 『天国の福音』 昭和22年2月5日
  • 『地上天国』(月刊) 昭和23年12月1日、後に機関紙『光』『救世』『栄光』と改題
  • 『自然農法解説書』(世界救世教、1953年) ASIN B000JBAXVQ
  • 『結核信仰療法』(世界救世教出版部、1953年) ASIN B000JBB536
  • 『アメリカを救う』(世界救世教出版部、1953年) ASIN B000JBBBC6
  • 『世界救世教奇蹟集 科学への原子爆弾』(世界救世教出版部、1953年) ASIN B000JBA6EA

関連書[編集]

世界救世教[編集]

  • 世界救世教(編) 『東方の光』(岡田茂吉伝記、エムオーエー商事、1981年)
  • 岡田茂吉全集刊行委員会 『岡田茂吉全集』
  • 岡田茂吉 『岡田茂吉墨筆集(一)』(雲の紀出版社、1993年)
  • 世界救世教(編)『天国の礎』(世界救世教いづのめ教団発行)
  • 世界救世教(編) 『岡田茂吉 光の生涯 写真集』(エムオーエー商事、1985年) ASIN B000J6O0DI
  • 世界救世教(編) 『神示の健康』(岡田茂吉論文集選書、エムオーエー商事)
  • 『岡田茂吉の世界 栗田勇氏は語る』(エムオーエー商事、1990年)

一般[編集]

  • 高橋巖 『岡田茂吉における宗教と芸術』(書肆風の薔薇、1984年) ISBN 479527164X
  • 川上源太郎 『現代を救う岡田茂吉』(講談社、1985年) ISBN 4062023989
  • 小出進 『世界救世教 岡田茂吉 企画行動力の秘密』(講談社、1986年) ISBN 4062024527
  • 谷口慧 『神様を見せてあげよう 世界救世教 岡田茂吉の奇跡』(徳間書店、1987年) ISBN 4195534399
  • 設楽登茂麿 『世界救世教教祖・超宗教MOAの岡田茂吉メシヤ様とは』(新人物往来社、1989年) ISBN 4404015941
  • 中島多加仁 『明烏阿呆伝 岡田茂吉の思想と生涯』(近代文芸社、1996年) ISBN 4773352914
  • 大星光史 『岡田茂吉その豊かな世界 地上の天国と自然農法』(考古堂書店、2000年) ISBN 4874995810

脚注[編集]

  1. ^ 重症の脳貧血、チフス、胃痛、腸カタル、尿道炎、リュウマチ、扁桃腺、神経衰弱など。
  2. ^ 山折哲雄/監修『日本宗教史年表』(河出書房新社、2004年2月18日) p.597
  3. ^ a b 後に国宝に指定された。
  4. ^ 世界救世教(編)『東方の光』下巻 p.138-151

外部リンク[編集]