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しかし、翌年サーバートンは[[ケンタッキーダービー]]に出走し2番人気に押された。もっとも、これは僚馬ビリーケリーが注目されていたからであり(欧米では馬主単位で[[投票券 (公営競技)|馬券]]が発行されるため、ビリーケリーとサーバートンで1つの馬券になる)、サーバートンはビリーケリーの[[ペースメーカー]]に過ぎなかった。だが、結果はサーバートンがビリーケリーを5馬身差突き放し圧勝してしまった。ケンタッキーダービーがサーバートンの初勝利である。そして4日後に[[プリークネスステークス]]を4馬身差で連勝、さらに[[ベルモントステークス]]にも5馬身差で楽勝、史上初の現アメリカ三冠を達成した(ただしこの頃のアメリカは三冠体系が整っていなかったため、サーバートンが三冠馬と呼ばれる様になったのはもっと後になってからである)。この年米年度代表馬に選出。
しかし、翌年サーバートンは[[ケンタッキーダービー]]に出走し2番人気に押された。もっとも、これは僚馬ビリーケリーが注目されていたからであり(欧米では馬主単位で[[投票券 (公営競技)|馬券]]が発行されるため、ビリーケリーとサーバートンで1つの馬券になる)、サーバートンはビリーケリーの[[ペースメーカー]]に過ぎなかった。だが、結果はサーバートンがビリーケリーを5馬身差突き放し圧勝してしまった。ケンタッキーダービーがサーバートンの初勝利である。そして4日後に[[プリークネスステークス]]を4馬身差で連勝、さらに[[ベルモントステークス]]にも5馬身差で楽勝、史上初の現アメリカ三冠を達成した(ただしこの頃のアメリカは三冠体系が整っていなかったため、サーバートンが三冠馬と呼ばれる様になったのはもっと後になってからである)。この年米年度代表馬に選出。


サーバートンは4歳になっても活躍し、サトラガハンデキャップではレコードで[[エクスターミネーター]]を破っている。だが、トンの翌年に旧アメリ三冠を達成し無敵を誇っていた[[マンノウォー]]との新旧三冠馬による[[マッチレース]]となったケニルワースパークゴールドカップは、マンノウォーに敗れてしまった。このため現在サーバートンが最強馬と呼ばれることは皆無である。レースはマンノウォーが先行し、その1馬身後方をサーバートンが追いかける展開、だがその差は縮まる事はなくマンノウォーが7馬身差でゴールした。サーバートンにとっては完敗であった。そしてその後3戦したが3,3,2着と勝てず引退している。
サーバートンは4歳になっても活躍し、サトラガハンデキャップではレコードで[[エクスターミネーター]]を破っている。だが、ケニルワスパクゴールドップ([[マンノウォー]]との[[マッチレース]]でマンノウォーの前に敗れてしまった。このため現在サーバートンが最強馬と呼ばれることは皆無である。レースはマンノウォーが先行し、その1馬身後方をサーバートンが追いかける展開、だがその差は縮まる事はなくマンノウォーが7馬身差でゴールした。サーバートンにとっては完敗であった。そしてその後3戦したが3,3,2着と勝てず引退している。


=== 年度別競走成績 ===
=== 年度別競走成績 ===

2008年6月2日 (月) 12:34時点における版

サーバートン
1919年5月19日ピムリコ競馬場にて
(J.ロフタス騎乗、プリークネスステークス)
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
生誕 1916年
死没 1937年10月30日
スターシュート
レディースターリング
生国 アメリカ合衆国
生産者 John E. Madden
Vivian A. Gooch
馬主 J.E.Madden
J.K.L.Ross
調教師 H.Guy Bedwell(米)
W.S.Walker(米)
競走成績
生涯成績 31戦13勝
獲得賞金 116,857ドル
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サーバートンSir Barton1916年 - 1937年)は、1918年から1920年にかけて活躍したアメリカ合衆国競走馬1919年に史上初の現行アメリカ三冠を達成した。

戦績

サーバートンは1916年ケンタッキー州で生まれる。そこそこの良血馬で、父がアメリカリーディングサイアー5回を獲得したスターシュート、母がレディースターリングであった。生産者であるマッデンとグーチはこの仔馬を1918年にカナダ人のビジネスマン、ジョン・ケネス・ラソン・ロスに1万ドルで販売している。そしてH.G.ベドウェルに調教を受けることになった。

デビュー戦は2歳の6月に出走したトレモントステークス。ここを6着に敗退すると、以後も惨敗続きでフューチュリティステークスで2着に入ったのが唯一の好走である、それ以外は全て大差で負けるという芳しく無いものであった。

しかし、翌年サーバートンはケンタッキーダービーに出走し2番人気に押された。もっとも、これは僚馬ビリーケリーが注目されていたからであり(欧米では馬主単位で馬券が発行されるため、ビリーケリーとサーバートンで1つの馬券になる)、サーバートンはビリーケリーのペースメーカーに過ぎなかった。だが、結果はサーバートンがビリーケリーを5馬身差突き放し圧勝してしまった。ケンタッキーダービーがサーバートンの初勝利である。そして4日後にプリークネスステークスを4馬身差で連勝、さらにベルモントステークスにも5馬身差で楽勝、史上初の現アメリカ三冠を達成した(ただしこの頃のアメリカは三冠体系が整っていなかったため、サーバートンが三冠馬と呼ばれる様になったのはもっと後になってからである)。この年米年度代表馬に選出。

サーバートンは4歳になっても活躍し、サトラガハンデキャップではレコードでエクスターミネーターを破っている。だが、ケニルワースパークゴールドカップ(マンノウォーとのマッチレース)でマンノウォーの前に敗れてしまった。このため現在サーバートンが最強馬と呼ばれることは皆無である。レースはマンノウォーが先行し、その1馬身後方をサーバートンが追いかける展開、だがその差は縮まる事はなくマンノウォーが7馬身差でゴールした。サーバートンにとっては完敗であった。そしてその後3戦したが3,3,2着と勝てず引退している。

年度別競走成績

1918年(6戦0勝)

1919年(13戦8勝)

1920年(12戦5勝)

  • サラトガハンディキャップ、ドミニオンハンディキャップ、マーチャンツ&シッツハンディキャップ

引退後

引退後は種牡馬入りしたがそれほどの成功を収めることはなかった、代表産駒はケンタッキーオークスに優勝したイースターストッキング。その後1937年に死亡し、ララミー山脈の山麓にある牧場に埋葬された。現在サーバートンを記念するメモリアルがワイオミング州のコンバースカウンティーのワシントンパークにある。

評価

エクリプス賞

表彰

血統表

サーバートン血統アイソミー系/Sterling4×3=18.75% Vandal5×5=6.25%(母内)) (血統表の出典)

Star Shoot
1898年 栗毛
父の父
Isinglass
1890年 鹿毛
Isonomy Sterling
Isola Bella
Dead-Lock Wenlock
Malpractice
父の母
Astrology
1887年 栗毛
Hermit Newminster
Seclusion
Stella Brother to Strafford
Toxophilite Mare

Lady Sterling
1899年 栗毛
Hanover
1884年 栗毛
Hindoo Virgil
Florence
Bourbon Belle Bonnie Scotland
Ella D.
母の母
Aquila
1891年
Sterling Oxford
Whisper
Eagle Phoenix
Au Revoir F-No.9