「菅原功一」の版間の差分

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旭川市議、[[北海道]]議会議員([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]所属、当選2回)を経て[[1994年]]11月に実施された旭川市長選挙で初当選した。[[1998年]]には再選を、[[2002年]]には3選を果たしている。
旭川市議、[[北海道]]議会議員([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]所属、当選2回)を経て[[1994年]]11月に実施された旭川市長選挙で初当選した。[[1998年]]には再選を、[[2002年]]には3選を果たしている。


主な功績に、[[旭川市旭山動物園|旭山動物園]]の再生計画の推進(新施設建設)などがあるが、2002年に実施された旭川市長選挙では当時の助役が公職選挙法違反で逮捕されたり、金銭の貸借問題など数の疑惑を抱え、[[2004年]]には[[リコール (自治体)|リコール]]運動が起こった。
主な功績に、[[旭川市旭山動物園|旭山動物園]]の再生計画の推進(新施設建設)などがあるが、2002年に実施された旭川市長選挙では対立候補の元道議に227票差まで詰め寄られる接戦となり、選挙後当時の助役が公職選挙法違反で逮捕されたり、金銭の貸借問題など数多くの疑惑を抱え、[[2004年]]には[[リコール (自治体)|リコール]]運動が起こった。


[[2006年]]には4選へ向けては出馬せず、引退を表明した。後継者として、元北海道議(自民党)の[[加藤礼一]](自民推薦、[[公明党|公明]]支持)を擁立したが、[[民主党 (1996-)|民主党]]推薦の[[西川将人]]に敗れた。事実上、[[1978年]]から28年間続いた市政の与党が自民党から民主党へ転換することとなった(ただし[[1999年]]以降、民主は自民系会派と相乗りの形で菅原与党に与していたため、厳密に言えば転換とは言えない)。
[[2006年]]には4選へ向けては出馬せず、引退を表明した。後継者として、元北海道議(自民党)の[[加藤礼一]](自民推薦、[[公明党|公明]]支持)を擁立したが、[[民主党 (1996-)|民主党]]推薦の[[西川将人]]に敗れた。事実上、[[1978年]]から28年間続いた市政の与党が自民党から民主党へ転換することとなった(ただし[[1999年]]以降、民主は自民系会派と相乗りの形で菅原与党に与していたため、厳密に言えば転換とは言えない)。

2008年1月27日 (日) 14:03時点における版

菅原 功一すがわら こういち1944年6月24日 - )は、旭川空港の建物を運営する旭川空港ビルの代表取締役。

政治家(旭川市議、北海道議会議員、旭川市長)。また、ばんえい競馬を運営する北海道市営競馬組合の管理者も務めた。

北海道旭川市出身。北海道立旭川商業高等学校卒。

旭川市議、北海道議会議員(自由民主党所属、当選2回)を経て1994年11月に実施された旭川市長選挙で初当選した。1998年には再選を、2002年には3選を果たしている。

主な功績に、旭山動物園の再生計画の推進(新施設建設)などがあるが、2002年に実施された旭川市長選挙では対立候補の元道議に227票差まで詰め寄られる接戦となり、選挙後当時の助役が公職選挙法違反で逮捕されたり、金銭の貸借問題など数多くの疑惑を抱え、2004年にはリコール運動が起こった。

2006年には4選へ向けては出馬せず、引退を表明した。後継者として、元北海道議(自民党)の加藤礼一(自民推薦、公明支持)を擁立したが、民主党推薦の西川将人に敗れた。事実上、1978年から28年間続いた市政の与党が自民党から民主党へ転換することとなった(ただし1999年以降、民主は自民系会派と相乗りの形で菅原与党に与していたため、厳密に言えば転換とは言えない)。


4代
坂東徹
日本の旗 旭川市
5代:1994.11.17 - 2006.11.16
6代
西川将人

※代の表記は、公職選挙法制定以降のものとする。