「木屋町通」の版間の差分

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'''木屋町通'''('''きやまちどおり''')は、[[京都市]]の主要な南北の通りの一つ。南は五条から北は二条まで。先斗町の西にあり、高瀬川の東側に沿っている。開通当時は、「樵木(きりこ)町」と呼ばれていたが、高瀬舟が運んでくる材木の倉庫が立ち並ぶようになったため、いつしか「木屋町」という名称に変わったという。木屋町周辺に残されている紙屋町、鍋屋町、米屋町などの地名は、当時の賑わいを彷彿させる。江戸時代中頃にはこの通りを往来する旅人や商人を目当てに、料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになり、酒楼娯楽の場へと姿を変えた。現在もスナック、料亭などに加え、各国料理レストランなど所狭しと並んでいる。幕末には勤皇志士が密会に利用したため、坂本龍馬や桂小五郎らの潜居跡や事跡の碑が繁華街のあちこちに立っており、大村益次郎や本間精一郎などが殉難している。
'''木屋町通'''('''きやまちどおり''')は、[[京都市]]の主要な南北の通りの一つ。南は五条から北は二条まで。[[先斗町]]の西にあり、[[高瀬川]]の東側に沿っている。
開通当時は、「樵木(きりこ)町」と呼ばれていたが、[[高瀬舟]]が運んでくる材木の倉庫が立ち並ぶようになったため、いつしか「木屋町」という名称に変わったという。木屋町周辺に残されている紙屋町、鍋屋町、米屋町などの地名は、当時の賑わいを彷彿させる。[[江戸時代]]中頃にはこの通りを往来する旅人や商人を目当てに、料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになり、酒楼娯楽の場へと姿を変えた。現在もスナック、料亭などに加え、各国料理レストランなど所狭しと並んでいる。[[幕末]]には勤皇志士が密会に利用したため、[[坂本龍馬]][[桂小五郎]]らの潜居跡や事跡の碑が繁華街のあちこちに立っており、[[大村益次郎]][[本間精一郎]]などが殉難している。





2005年3月28日 (月) 06:35時点における版

木屋町通きやまちどおり)は、京都市の主要な南北の通りの一つ。南は五条から北は二条まで。先斗町の西にあり、高瀬川の東側に沿っている。

開通当時は、「樵木(きりこ)町」と呼ばれていたが、高瀬舟が運んでくる材木の倉庫が立ち並ぶようになったため、いつしか「木屋町」という名称に変わったという。木屋町周辺に残されている紙屋町、鍋屋町、米屋町などの地名は、当時の賑わいを彷彿させる。江戸時代中頃にはこの通りを往来する旅人や商人を目当てに、料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになり、酒楼娯楽の場へと姿を変えた。現在もスナック、料亭などに加え、各国料理レストランなど所狭しと並んでいる。幕末には勤皇志士が密会に利用したため、坂本龍馬桂小五郎らの潜居跡や事跡の碑が繁華街のあちこちに立っており、大村益次郎本間精一郎などが殉難している。


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