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創設1年半後の[[1966年]]8月に開催された日本水泳選手権では、出場27選手のうち25選手が入賞。6種目で優勝するなど英才教育の成果を現している。
創設1年半後の[[1966年]]8月に開催された日本水泳選手権では、出場27選手のうち25選手が入賞。6種目で優勝するなど英才教育の成果を現している。


だが[[1972年]]12月、オリンピックメダリストを養成するとした初期の目標を達成し、加えて山田が高齢となったのと本業の[[大衆薬]]事業を最優先させるため解散を発表し、選手や指導ノウハウなどは[[イトマンスイミングスクール]]に受け継がれた。
[[1972年]]12月、オリンピックメダリストを養成するとした初期の目標を達成し、加えて山田が高齢となったのと本業の[[大衆薬]]事業を最優先させるため解散を発表し、選手や指導ノウハウなどは[[イトマンスイミングスクール]]に受け継がれた。


==主な出身選手==
==主な出身選手==

2007年12月16日 (日) 00:26時点における版

山田スイミングクラブとは、かつて存在したスイミングクラブ。

東京オリンピック競泳競技が不振であったことから、当時ロート製薬社長であった山田輝郎が私財1億円を提供し、大阪府生野区のロート製薬敷地内に1965年3月に開設した。東京の代々木スイミングスクールとならび日本における最初期のスイミングスクールと言われる。全国の有望選手に英才教育を施すことを目的としていた。

創設1年半後の1966年8月に開催された日本水泳選手権では、出場27選手のうち25選手が入賞。6種目で優勝するなど英才教育の成果を現している。

1972年12月、オリンピックメダリストを養成するとした初期の目標を達成し、加えて山田が高齢となったのと本業の大衆薬事業を最優先させるため解散を発表し、選手や指導ノウハウなどはイトマンスイミングスクールに受け継がれた。

主な出身選手

指導者

後にイトマンスイミングスクールのコーチとなる奥田精一郎加藤浩時がいた。

参考文献

  • 「金メダルへの挑戦! - 世界一を成し得た水泳研究と女子英才教育の戦略的手法」(新風舎)(2004)