「駒井高白斎」の版間の差分

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'''駒井政武'''(こまいまさたけ(生没年不詳))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[武田氏|甲斐武田氏]]家臣。[[駒井政時]]の子。[[駒井信為]]の弟。[[駒井政直]](昌直)の父。号は'''高白斎'''。名は昌頼とも
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[[駒井氏]]は[[甲斐源氏]]武田氏の分流で、[[巨摩郡]]駒井郷([[山梨県]][[韮崎市]])を本拠とする一族。「高白斎政武」は[[武田信虎]]の頃より武田家に仕え、積翠寺郷を領していた。特にその子[[武田晴信]](信玄)の代に取次役を務め、外交面でも活躍。武将としても[[信濃国]][[藤沢城]]攻めで活躍している。

また信虎から晴信期の史料となる『'''高白斎日記'''』(『高白斎記』とも)を記した。

== 生涯 ==
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天文11年([[1542年]])9月26日、[[藤沢頼親]]が籠城する[[信濃国]][[伊那郡]][[藤沢城]]を陥落させた(『妙法寺記』)。

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== 異説 ==
== 異説 ==
駒井高白斎と駒井政武は別人であるという説がある([[吉川弘文社]]『戦国人名事典』などより)。
* 駒井高白斎と駒井政武は別人であるという説がある([[吉川弘文社]]『戦国人名事典』などより)。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
[[平山優]]「駒井高白斎の政治的位置」『戦国史研究』
* [[平山優]]「駒井高白斎の政治的位置」『戦国史研究』


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2007年12月10日 (月) 11:11時点における版

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時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
改名 政武、高白斎
別名 昌頼
主君 武田信虎晴信
氏族 甲斐源氏武田氏駒井氏
父母 父:駒井政時
兄弟 信為政武
政直

駒井 政武(こまい まさたけ)は、戦国時代武将甲斐武田氏家臣。

駒井氏甲斐源氏武田氏の分流で、巨摩郡駒井郷(山梨県韮崎市)を本拠とする一族。「高白斎政武」は武田信虎の頃より武田家に仕え、積翠寺郷を領していた。特にその子武田晴信(信玄)の代に取次役を務め、外交面でも活躍。武将としても信濃国藤沢城攻めで活躍している。

また信虎から晴信期の史料となる『高白斎日記』(『高白斎記』とも)を記した。

生涯

天文10年(1541年)8月16日、今川氏は外交の方針転換により、北条氏と富士南麓の領土紛争に発展したため、両家は武田氏へ援助を求める(『妙法寺記』)。同年10月22日、今川氏と北条氏の和議のため休戦となり、10月24日に今川氏と北条氏の和議が成立した(『高白斎日記』)。

天文11年(1542年)9月26日、藤沢頼親が籠城する信濃国伊那郡藤沢城を陥落させた(『妙法寺記』)。

天文16年(1547年)5月30日、甲州法度次第の起草を行い、信玄に提出したという(『高白斎日記』)。

異説

  • 駒井高白斎と駒井政武は別人であるという説がある(吉川弘文社『戦国人名事典』などより)。

参考文献

  • 平山優「駒井高白斎の政治的位置」『戦国史研究』