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'''佐々倉 桐太郎'''(ささくら とうたろう、[[天保]]元年([[1830年]]) - [[明治]]8年([[1875年]])[[12月17日]])は、[[幕末]]の[[幕臣]]。明治期の海軍軍人。[[諱]]は義行。
'''佐々倉 桐太郎'''(ささくら とうたろう、[[天保]]元年([[1830年]]) - [[明治]]8年([[1875年]])[[12月17日]])は、[[幕末]]の[[幕臣]]。明治期の海軍教官。[[諱]]は義行。


江戸に生まれ、御家人の結城家から浦賀組与力佐々倉家の養子となる。浦賀組与力として、[[弘化]]3年([[1846年]])のアメリカ使節[[ジェームズ・ビッドル|ビッドル]]、[[嘉永]]6年([[1853年]])の[[マシュー・ペリー|ペリー]]来航時に応接掛、嘉永7年([[1854年]])に[[鳳凰丸]]建造掛を務め、鳳凰丸の副将に任命された。
江戸に生まれ、御家人の結城家から[[遠国奉行|浦賀奉行所]][[与力]]佐々倉家の養子となる。[[弘化]]3年([[1846年]])のアメリカ使節[[ジェームズ・ビッドル|ビッドル]]、[[嘉永]]6年([[1853年]])の[[マシュー・ペリー|ペリー]]来航時に応接掛、嘉永7年([[1854年]])に[[鳳凰丸]]建造掛を務め、鳳凰丸の副将に任命された。


[[安政]]2年([[1855年]])、[[長崎海軍伝習所]]第一期生に選ばれ、航海術・測量を修めた。江戸に帰朝後、軍艦操練所教授方となる。[[万延]]元年([[1860年]])、[[咸臨丸]]運用方兼砲術方として渡米。[[サンフランシスコ]]入港時、見習士官であった[[赤松則良|赤松大三郎]]とともに日本初の祝砲を撃っ
[[安政]]2年([[1855年]])、[[長崎海軍伝習所]]第一期生に選ばれ、航海術・測量を修めた。江戸に帰朝後、軍艦操練所教授方となる。[[万延]]元年([[1860年]])、[[咸臨丸]]運用方兼砲術方として渡米。
[[サンフランシスコ]]入港時、見習士官であった[[赤松則良|赤松大三郎]]とともに日本初の祝砲を撃っている


帰国後、軍艦操練所教授方頭取、軍艦役などを歴任、幕府海軍の強化に尽力する
帰国後、軍艦操練所教授方頭取、軍艦役などを歴任、小笠原諸島の測量や幕府海軍の強化に尽力した

維新の際、肺病のため榎本艦隊には参加できず、子息・佐々倉松太郎(軍艦役)を[[中島三郎助]]に同道させた。[[戊辰戦争]]後、松太郎は生還したが、中島父子は戦死。佐々倉は手を尽くし、中島の末子、[[中島与曽八|与曽八]](1868-1929・海軍機関中将)を[[駿府藩|静岡藩]]三等勤番士に採用させ、中島家を存続させた。

[[明治]]4年([[1871年]])[[海軍兵学校|海軍兵学寮]]に出仕、[[明治]]6年([[1873年]])には兵学権頭となり、海軍軍人の育成に努めた。


維新の際、肺病のため榎本艦隊には参加できず、子息を[[中島三郎助]]に同道させた。


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2007年6月25日 (月) 15:39時点における版

佐々倉 桐太郎(ささくら とうたろう、天保元年(1830年) - 明治8年(1875年12月17日)は、幕末幕臣。明治期の海軍教官。は義行。

江戸に生まれ、御家人の結城家から浦賀奉行所与力佐々倉家の養子となる。弘化3年(1846年)のアメリカ使節ビッドル嘉永6年(1853年)のペリー来航時に応接掛、嘉永7年(1854年)に鳳凰丸建造掛を務め、鳳凰丸の副将に任命された。

安政2年(1855年)、長崎海軍伝習所第一期生に選ばれ、航海術・測量を修めた。江戸に帰朝後、軍艦操練所教授方となる。万延元年(1860年)、咸臨丸運用方兼砲術方として渡米。 サンフランシスコ入港時、見習士官であった赤松大三郎とともに日本人初の祝砲を撃っている。

帰国後、軍艦操練所教授方頭取、軍艦役などを歴任、小笠原諸島の測量や幕府海軍の強化に尽力した。

維新の際、肺病のため榎本艦隊には参加できず、子息・佐々倉松太郎(軍艦役)を中島三郎助に同道させた。戊辰戦争後、松太郎は生還したが、中島父子は戦死。佐々倉は手を尽くし、中島の末子、与曽八(1868-1929・海軍機関中将)を静岡藩三等勤番士に採用させ、中島家を存続させた。

明治4年(1871年海軍兵学寮に出仕、明治6年(1873年)には兵学権頭となり、海軍軍人の育成に努めた。