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すると子貢は「人は誰でも皆天が高いことを知っておりますが、では天の高さはどのようなものか、と聞かれたら皆知らないと答えるでしょう。わたしは仲尼の賢さを知っておりますが、その賢さがどのようなものであるのかは知らないのです」と孔子の偉大さを天の高さになぞらえて答えた。
すると子貢は「人は誰でも皆天が高いことを知っておりますが、では天の高さはどのようなものか、と聞かれたら皆知らないと答えるでしょう。わたしは仲尼の賢さを知っておりますが、その賢さがどのようなものであるのかは知らないのです」と孔子の偉大さを天の高さになぞらえて答えた。


またあるとき、[[叔孫武叔]]が「子貢は孔子より優れている。」と話したことを[[子服景伯]]が子貢に伝えた。子貢は「屋敷の塀に例えるなら、私の家の塀の高さは肩の高さぐらいでしょう。ですから、屋敷の中の小奇麗な様子が窺えます。しかしながら、夫子の家の塀の高さは高すぎて、ちゃんと門から見ないと中の素晴らしい建物や召使の様子は知る事はできないでしょう。ですから、叔孫武叔がそういったのは無理ないことかもしれません。」と見事な例を引き、孔子が優れている事を表現した。この子貢の言葉は今でも中国のことわざとして残っている。
== 政治家、実業家としての子貢 ==

春秋左氏伝には、国難に際して子貢が[[呉 (春秋)|呉]]、[[斉 (春秋)|斉]]などへ、外交官として使わされていることが散見している。(春秋左氏伝では'''子贛'''とも表記されている。同一人物とされる)
春秋左氏伝には、国難に際して子貢が[[呉 (春秋)|呉]]、[[斉 (春秋)|斉]]などへ、外交官として使わされていることが散見している。(春秋左氏伝では'''子贛'''とも表記されている。同一人物とされる)
また、魯の大臣が外交の場で失敗して、子贛がいれば失敗しなかったのに、と残念がっている表現や、斉国から成という城市を取り戻していること、答えに窮した正使を助けていることなどの言動から、かなり有能であったことがわかるし、孔子にも勝ると一部で評価されるのも理解できる。
また、魯の大臣が外交の場で失敗して、子贛がいれば失敗しなかったのに、と残念がっている表現や、斉国から成という城市を取り戻していること、答えに窮した正使を助けていることなどの言動から、かなり有能であったことがわかるし、孔子にも勝ると一部で評価されるのも理解できる。

2007年2月8日 (木) 18:59時点における版

子貢(しこう、紀元前520年?~?)は孔子の弟子にして、孔門十哲の一人。春秋時代末期から戦国時代にかけて活躍した。本名は端木賜(たんぼくし)。姓が端木、名は賜、が子貢。の人。弁舌に優れ衛、でその外交手腕を発揮する。また、司馬遷の『史記』ではによれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。孔子死後の弟子たちの実質的な取りまとめ役を担った。の時代に黎侯に封じられた。

子貢の弁舌

あるとき子貢が景公に「あなたは誰を師となさっているのか」と聞かれたとき、子貢は「仲尼(孔子)が私の師です」と答えた。 しかし子貢は景公に「仲尼は賢いですか」と問われると即座に「賢いです」と答えたものの、「どのように賢いのですか」と問われると「存じません」と答えた。景公はいぶかしんで「貴方は仲尼は賢いと言いながら、その賢さがどのようなものであるのかは知らないという。それでよろしいのですか」と聞いた。

すると子貢は「人は誰でも皆天が高いことを知っておりますが、では天の高さはどのようなものか、と聞かれたら皆知らないと答えるでしょう。わたしは仲尼の賢さを知っておりますが、その賢さがどのようなものであるのかは知らないのです」と孔子の偉大さを天の高さになぞらえて答えた。

またあるとき、叔孫武叔が「子貢は孔子より優れている。」と話したことを子服景伯が子貢に伝えた。子貢は「屋敷の塀に例えるなら、私の家の塀の高さは肩の高さぐらいでしょう。ですから、屋敷の中の小奇麗な様子が窺えます。しかしながら、夫子の家の塀の高さは高すぎて、ちゃんと門から見ないと中の素晴らしい建物や召使の様子は知る事はできないでしょう。ですから、叔孫武叔がそういったのは無理ないことかもしれません。」と見事な例を引き、孔子が優れている事を表現した。この子貢の言葉は今でも中国のことわざとして残っている。

春秋左氏伝には、国難に際して子貢がなどへ、外交官として使わされていることが散見している。(春秋左氏伝では子贛とも表記されている。同一人物とされる) また、魯の大臣が外交の場で失敗して、子贛がいれば失敗しなかったのに、と残念がっている表現や、斉国から成という城市を取り戻していること、答えに窮した正使を助けていることなどの言動から、かなり有能であったことがわかるし、孔子にも勝ると一部で評価されるのも理解できる。

また、史記の記述によれば、を救うためにに使いし後の縦横家顔負けの弁舌をふるって魯を救い、呉を滅ぼし、越を覇者たらしめ、斉と晋を守ったとされる。 類似の記述は墨子の非儒下編にもある。

このような功績から、魯衛の宰相になったといわれる。

その上、彼は史記の貨殖列伝に載るほどの人物で、その伝には、子貢は魯と曹の国で物資を売り買いして莫大な富を築いたとされる。また各国諸侯とも交際し、孔子の名が広まったのは子貢が弟子にいたからだ、と書かれている。

墨子』、『韓非子』、『荘子』(そうじ)など、多くの戦国時代の書物に子貢が登場していることから、当時の人々にとって非常に有名な人物であったことがわかる。

孔子との関係

上の逸話でも窺えるように、子貢は表現力においては時に孔子をも上回る才能を見せ、たびたび「子貢は孔子を超えている」と言われた。また、孔子を貶める意図を込めて子貢を持ち上げたと思われる人物もいたが、そのような話を耳にするたびに、子貢は巧みな喩えを用いて孔子を賞賛することで反論している。

孔子の没後、その弟子たちは孔子の墓の近くで三年間服喪したが、子貢はさらに三年間、合わせて六年もの間、喪に服したと伝わっている。孔子への賞賛は謙遜ではなく、心からの敬意によるものであっただろう。

孔子は彼の能力の使い方に難色を示していた。しかし彼の才気換発さを愛し、厳しく反省を促しながらも時に励まし、愛情のこもった指導をしている。