牧口義方
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牧口 義方(まきぐち よしかた、1853年1月13日(嘉永5年12月4日[1])- 1899年(明治32年)12月20日[1][2][3][4])は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・正太郎[5]。
経歴
[編集]越後国刈羽郡荒浜村[1][5](新潟県[2]刈羽郡荒浜村[4]を経て現柏崎市荒浜[3])で、代々村の組頭役を務め、回船業を営む牧口家4代当主・庄三郎の息子として生まれた[3][5]。同郡比角村の星野鏡里に師事し漢学を修め[1]、さらに同郡南条村の藍沢朴斎につき[1][3][5]、柏崎県立学校で学んだ[1][3][5]。
海運業を営み、柏崎銀行頭取、直江津取引所理事長、新潟商業銀行取締役、新潟銀行監査役などを務めた[2][4][5]。
1881年(明治14年)12月、新潟県第18中学区第18小学区学務委員に就任[1]。以後、荒浜村戸長、所得税調査委員などを務めた[1][2][5][4]。1893年(明治26年)2月、新潟県会議員に選出され、同常置委員にも在任した[1][2][3][4][5]。
1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(新潟県第6区、進歩党)で初当選し[1][3][5][6]、同年8月の第6回総選挙(新潟県第6区、憲政本党)でも再選され[1][3][6]、衆議院議員に連続2期在任した[2][4]。議員在任中に豊多摩郡渋谷赤十字社病院で入院加療をしていたが1899年12月に胃癌のため死去した[1][5][7][8]。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 『衆議院議員列伝』387頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』584頁。
- ^ a b c d e f g h 『越佐人物誌 中巻』874-875頁。
- ^ a b c d e f 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』409頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『新潟県大百科事典 下巻』570頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』77頁。
- ^ 『明治過去帳』新訂初版、582頁。
- ^ 『官報』第4945号、明治32年12月23日。
- ^ 「牧口義矩」『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年、ま78頁。
- ^ 「小磯國昭」『大衆人事録 昭和3年版』帝国秘密探偵社、1927年、コ之部1頁。
参考文献
[編集]- 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
- 牧田利平編『越佐人物誌 中巻』野島出版、1972年。
- 新潟日報事業社編『新潟県大百科事典 下巻』新潟日報事業社、1977年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。