源宗雅
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 保延2年(1136年) |
死没 | 元久元年7月14日(1204年8月17日) |
官位 | 従三位、刑部卿 |
主君 | 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇 |
氏族 | 村上源氏雅兼流 |
父母 | 父:右中弁源雅綱、母:正四位下惟信の女 |
兄弟 | 国雅、宗雅、最雅、晴雅、雅経、公雅、女子(藤原公清の母) |
妻 | 石清水別当光清の女 |
子 | 具兼、顕兼、女子(顕子) |
源 宗雅(みなもと の むねまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。村上源氏雅兼流。非参議従三位。父は右中弁源雅綱。母は正四位下惟信の女。息男の顕兼は『古事談』の編者として知られる。
経歴
[編集]- 保延5年(1139年)1月5日、従五位下に叙される[1]。
- 久安6年(1150年)6月25日、治部少輔に任ぜられる。
- 仁平3年(1153年)1月5日、従五位上に昇叙。
- 応保元年(1161年)10月8日、正五位下に昇叙[2]。
- 応保2年(1162年)4月15日、民部権少輔に遷る。同年7月17日、越後守を兼ねる。
- 仁安元年(1166年)8月27日、越後守を止める。
- 治承4年(1180年)1月28日、左馬権頭に遷る。
- 養和元年(1181年)12月29日、従四位下に昇叙[3]。
- 寿永2年(1183年)1月27日、従四位上に昇叙。
- 文治2年(1186年)12月15日、刑部卿に任ぜられる。
- 文治5年(1189年)11月13日、正四位下に昇叙[4]。
- 建仁3年(1203年)3月2日、従三位に叙される。刑部卿は元の如し。同年10月24日、息男顕兼に刑部卿を譲る。
- 元久元年(1204年)3月7日、出家。同年7月14日、薨去。享年69。
系譜
[編集]- 父:源雅綱
- 母:正四位下惟信の女
- 妻:石清水別当光清の女
- 男子:源顕兼(1160-1215)
- 生母不明の子女
- 男子:源具兼
- 女子:顕子