武谷元立

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武谷 元立(たけや げんりゅう、天明5年(1785年)1月[1](2月との記載もあり[2]) - 嘉永5年7月7日1852年8月21日))は、江戸時代医学者(蘭方医)。福岡藩御目見医師。名は是明。は幽恵。(あざな)は子峻。元立は代々の通称であった[1]

生涯[編集]

代々医師を業とする武谷家の、武谷敬明(号は恕庵)の子として、筑前国鞍手郡高野村(現・福岡県宮若市)に生まれる。亀井南冥儒学を学び、後に諸国を遍歴し医学を修めた[1]

帰郷後、家業を継ぎ、郡の頭取医を務めた。シーボルトの弟子であった児玉順蔵が武谷家に滞留し、西洋医学を教授した際、百武万里、有吉周平らと学友となり、医学の研鑽を積んだ。さらに、百武、有吉らと長崎に赴き、シーボルトに西洋医学を学んだ。シーボルト事件が発生した時には、鳴滝塾生の高野長英、平井海蔵、原恭篤らを自宅に居住させ勉強を続けた。天保12年(1841年)、百武万里を筆頭者として、博多において初めて人体解剖を行った[1]。そのため、一時誤解され迫害を受けるが、その後誤解が解け、福岡藩の御目見医師となった[2]。長男の武谷祐之も優れた蘭方医であった[1]

嘉永5年(1852年)7月7日死去。故郷高野村の共同墓地に葬られている[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 武内博編『日本洋学人名事典』(柏書房、1994年)235頁
  2. ^ a b 『日本人名大辞典』(講談社、2001年)1152頁