武田信親
表示
この記事の正確性に疑問が呈されています。 |
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 長禄2年(1458年) |
死没 | 文明17年(1485年)8月22日[1] |
改名 | 彦太郎(幼名)[1]→信親 |
別名 | 大膳大夫 |
官位 | 治部少輔[1] |
幕府 | 室町幕府 若狭国守護[1]、相伴衆 |
氏族 | 若狭武田氏 |
父母 | 父:武田国信 |
兄弟 | 信親、元信 |
武田 信親(たけだ のぶちか)は、戦国時代の大名。若狭武田氏4代当主。室町幕府若狭国守護・相伴衆。大膳大夫と称した[1]。官位は治部少輔。
略歴
[編集]長禄2年(1458年)、3代当主・武田国信の子として誕生[1]。幼名は彦太郎。文明12年(1480年)、室町幕府第9代将軍・足利義尚の御相判衆に任じられた。
なお、死去の年代をめぐり以下の2説があり、それに伴い事跡も異なる。
文明17年没とする場合
[編集]父の存命中に家督を譲られていたが、文明17年(1485年)に父に先立ち没した。家督は弟・元信が継いだ。文明14年(1482年)に信親が建立した栖雲寺に墓所が存在する。
永正11年没とする場合
[編集]延徳3年(1491年)に父が死去したため家督を継いで4代当主となる。
明応元年(1492年)、10代将軍・足利義稙による第二次六角征伐が始まると、信親は六角高頼を破るのに武功を挙げた。このため、義稙に重用されるようになり、義稙が京都から追放された後も義稙に従った。永正5年(1508年)、大内義興によって義稙が復権してくると、義稙に従い、足利義澄を奉じる六角高頼と戦って勝利した。
永正11年(1514年)に死去[1]。享年57。法名は宗鉄[1]。跡を子の元信[1]が継いだ。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
外部
[編集]- 若狭武田氏(栖雲寺)
- 福井県史 年表(1485年)
- 福井県史 年表(1514年)