東坡肉
東坡肉(トンポーロウ、ドンポーロウ、拼音: )とは、豚肉を調理した中華料理である。北宋の詩人蘇軾が考案したとされ、料理の名前は彼の号である「蘇東坡」に由来する[1]。
一般的には[2]、浙江料理の一つで杭州の名物とされる[3]。煮込み料理である焼菜に分類される[4]。類似した料理として、紅焼蹄膀(ホンシャオテイパン、豚の肩肉の醤油煮)がある[5]。
概要
[編集]皮付きの豚のばら肉を一度揚げるか茹でるかして余分な油を取り、醤油と酒と砂糖で煮含めた料理である。杭州の東坡肉は多量の砂糖で甘く味付けされることが多い[6]。人数の分だけ用意した壺の中に肉を入れて密閉し、蒸して供する場合もある[7]。切り分けた肉を鉢に入れて蒸し、蒸し上がった肉を皿に盛りつけて供する「扣肉」(コウロウ)という料理も存在する[7]。
伝承
[編集]元豊2年(1079年)、蘇軾は政治を批判した咎で逮捕され、黄州(現在の湖北省黄州区)に左遷される。黄州に流された蘇軾は「晴耕雨読」の生活を送り、自身が農作業を行っていた場所に因んで東坡居士と号した。蘇軾は黄州の豚肉に目をつけ、東坡肉の原型となる紅焼肉(ホンシャオロウ、豚肉の醤油煮)を考案した[8]。蘇軾は黄州の豚肉を称えて、次のような詩を残した。
黄州好猪肉
價賤等糞土
— 蘇軾、『食猪肉』
富者不肯喫
貧者不解煮
慢著火少著水
火候足時他自美
毎日起来打一碗
飽得自家君莫管
皇帝・神宗が没した後に蘇軾は中央政界に復帰するが政争に巻き込まれ、元祐4年(1089年)に杭州に再び左遷される。蘇軾は杭州で西湖の水利工事を行い、その際に工事を感謝した現地の人々から豚と酒(紹興酒)を献上された[9]。豚肉と酒を使って紅焼肉を作るよう自宅の料理人に命じ、工事の寄付台帳に名前のあった家に料理が振る舞われた。蘇軾の振る舞った料理を絶賛した杭州の人々は料理に「東坡肉」と名付け、料理店でも作られるようになったという[10]。
バリエーション
[編集]杭州、黄州以外に蘇軾の出身地である四川、流刑先の海南島でも東坡肉が名物料理とされている[11]。河南省開封では筍と豚肉の料理、江西省九江市の永修周辺では藁と一緒に煮られた豚肉料理が[12]、それぞれ蘇軾にちなむエピソードとともに東坡肉として伝えられている。また、湖北省武漢では豚肉・冬筍・ホウレンソウ(菠菜)を材料とする料理が、東坡肉として供される(東と冬、坡と菠は音が通じるため)[13]。
日本の料理
[編集]日本において、長崎県では卓袱料理の一つである東坡煮、沖縄料理では泡盛を使うラフテーとしてアレンジされた[7]。また、日本料理の豚の角煮の起源とも言われ[14]、時には豚の角煮と同一の料理と見なされることもある[3]。日本には明治時代にすでに伝わっており、村井弦斎が著した『食道楽』にも東坡肉のレシピが掲載されていた[2]。
脚注
[編集]- ^ 21世紀研究会編『食の世界地図』、310頁
- ^ a b 南條『中華文人食物語』、23頁
- ^ a b 譚『中華料理四千年』、49頁
- ^ 21世紀研究会編『食の世界地図』、307頁
- ^ エミリー・ハーン『中国料理』(タイムライフブックス編集部編訳, タイムライフインターナショナル, 1972年)、90頁
- ^ 南條『中華文人食物語』、24-25頁
- ^ a b c 木村『中国食文化事典』、397頁
- ^ 譚『中華料理四千年』、80頁
- ^ 譚『中華料理四千年』、78頁
- ^ 譚『中華料理四千年』、78-79頁
- ^ 南條『中華文人食物語』、20頁
- ^ 南條『中華文人食物語』、20-23頁
- ^ 南條『中華文人食物語』、21頁
- ^ 21世紀研究会編『食の世界地図』、195頁
参考文献
[編集]- 21世紀研究会編『食の世界地図』(文春新書, 文藝春秋, 2004年5月)
- 木村春子編著『中国食文化事典』、397頁(角川書店, 1988年3月)
- 譚璐美『中華料理四千年』(文春新書, 文藝春秋, 2004年8月)
- 南條竹則『中華文人食物語』(集英社新書, 集英社, 2005年5月)