村岡浅右衛門
8代 村岡 浅右衛門(淺右衞門、むらおか あさえもん、1853年5月27日(嘉永6年4月20日[1][2])- 1927年(昭和2年)8月26日[2][3])は、明治・大正期の大地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・房次郎[1][2]。
経歴
[編集]山城国紀伊郡上鳥羽村[2](京都府紀伊郡上鳥羽村字上鳥羽、京都市下京区を経て現京都市南区)で、大地主、大庄屋、貸金業の7代村岡浅右衛門の長男として生まれる[1][2]。巖谷一六に師事し習字・詩文を学んだ[2]。1889年(明治22年)6月、家督を相続し、同年3月、8代浅右衛門を襲名した[2]。
1882年(明治15年)4月、上鳥羽村戸長兼部内学務委員に就任し、1884年(明治17年)6月、上鳥羽村塔森村戸長に発令され、1889年3月の町村制施行まで在任[2]。同年7月、紀伊郡所得税調査委員となり(1891年5月まで在任)、1890年(明治23年)2月、京都府会議員に当選し[3]1892年(明治25年)4月まで在任[2]。1899年(明治32年)9月、第1回紀伊郡会議員に選挙で当選し1901年(明治34年)6月まで在任[2]。同年12月、上鳥羽村長に就任し1904年(明治37年)まで務め、1911年(明治44年)に再任された[2]。この間、憲政本党、立憲政友会に所属し、1904年(明治37年)多額納税者の互選により貴族院議員に選出され[2]、同年9月29日[4]から1911年(明治44年)9月28日まで在任した[2][3]。
実業界では、1894年(明治27年)12月、西陣貯蓄銀行を設立し、その後、取締役、副頭取[1]を歴任した[2]。その他、京都農商銀行取締役、京都蚕糸外商品取引所理事などを務めた[2][3]。
また、北海道の開拓事業にも関わり、1895年(明治28年)京都拓民協会会長となり西田作次郎らと事業に取り組んだ[2]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1911年。
- 京都府議会事務局編『京都府議会歴代議員録』京都府議会、1961年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。