明建神社

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明建神社
明建神社本殿
所在地 岐阜県郡上市大和町牧814-1
位置 北緯35度48分42.48秒 東経136度55分24.79秒 / 北緯35.8118000度 東経136.9235528度 / 35.8118000; 136.9235528
主祭神 国常立尊妙見菩薩
社格 旧郷社
創建 承久3年(1221年
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明建神社の桜並木

明建神社(みょうけんじんじゃ)は、岐阜県郡上市(旧郡上郡大和町)にある神社である。

古今伝授の里フィールドミュージアムに隣接する。

約250mの参道には、樹齢300年以上の(神迎え杉、神帰り杉など)と、約120本の山桜の桜並木がある。社叢は県天然記念物に指定されている[1]。桜並木は「ぎふ・水と緑環境百選」「飛騨・美濃さくら三十三選[2]に選定されている。

沿革[編集]

承久3年(1221年)、承久の乱の戦功により、東胤行東氏)は美濃国山田荘(現・郡上市)を新たに所領する。胤行は山田荘阿千葉(現・郡上市大和町剣)を本拠地にしたさい、本家の千葉氏の氏神である妙見菩薩を勧請し、妙見宮を築いたのが始まりという。

鎌倉時代末期(1310年頃)、東氏村により篠脇城が築城されると、妙見宮は現在地に移転する(一説には参道は篠脇城の馬場跡という)。東氏は古今伝授の家であり、妙見宮で古今伝授の講義が行なわれることもあったという。文明3年(1471年)、東常縁連歌師宗祇に古今伝授の講義を行なったという記録がある。別当寺として尊星王院があったが、斎藤妙椿が篠脇城を落とした際に兵火に遭って焼失したという。その後東氏が復興したものの、同氏が没落した後の歴史は定かでない。一説では朝倉氏の篠脇城攻めで廃絶したという[3]。寺跡からは鎌倉時代の骨壺が発見されており、旧大和町が文化財に指定した。

天文10年(1541年)、東氏が本拠地を篠脇城から赤谷山城へ移転し、篠脇城は廃城とされたが、妙見宮は移転されなかった。その後、この地を治める歴代領主により保護されたという。

明治時代初期の神仏分離令により明建神社に改称し、祭神を国常立尊にする。しかし祭神の変更は表向きのことであり、現在も神体は妙見菩薩である。明治6年(1873年)郷社となる。

現在の社殿は、享保7年(1722年)の再建である。

祭神[編集]

神仏分離令による表向きの変更。実際の神体は妙見菩薩である。

主な行事・祭礼[編集]

  • 七日祭り
8月7日に行なわれる。奉納される「神踊り」の神前の舞、杵振りの舞、獅子起しの舞などは、室町時代田楽が伝承されている。夜には、薪能の「薪能くるす桜」が行なわれる。岐阜県重要無形民俗文化財に指定されている[4]

所在地[編集]

交通[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 明建神社の社叢”. 岐阜県. 2013年4月25日閲覧。
  2. ^ 岐阜県 飛騨・美濃さくら33選” (PDF). 岐阜県. 2013年4月25日閲覧。
  3. ^ 濃飛の文化財 50/51合併号
  4. ^ 七日祭”. 岐阜県. 2013年5月14日閲覧。