天下茶屋の仇討

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天下茶屋の仇討(てんがちゃやのあだうち)は、1609年慶長14年)に、林重次郎と源三郎の兄弟が父の仇である当麻三郎右衛門を大坂・天下茶屋で討った事件。

概要[編集]

備前国戦国大名宇喜多秀家の家臣・林玄蕃は、家中の長船紀伊守との争論が原因で、慶長5年(1600年)9月2日夜、当麻三郎右衛門のために闇討ちにあった。

その子・重次郎と源三郎の兄弟は敵をたずねもとめて苦心の末、当麻が伊藤将監と変名して豊臣氏の家臣・大野治長の家来となっているのをつきとめた。兄・重次郎は病態のために途中でむざんな返り討ちにあったが、弟・源三郎は家来の鵤幸右衛門(いかるが こうえもん)[1]の助力によって、慶長14年(1609年)3月3日、天下茶屋で首尾よく父と兄との仇を討った。

しかし、この事件は実在しなかったという見解が一般的である[2]平出鏗二郎は『敵討』(1909年)において天下茶屋の仇討を「事実か不明、または不確実」としている[3]。鵤幸右衛門は伏見人形の創始者と伝えられるが、これも疑わしい[4]

江戸時代の代表的な仇討ちの一つとして有名で、これを歌舞伎化した『敵討天下茶屋聚』(かたきうち てんがぢゃや むら、通称:『天下茶屋』)は人気演目の一つとなった。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 鵤幸右衛門”. コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年12月25日閲覧。
  2. ^ 藤沢毅「翻刻『摂州天下茶屋敵討』」『尾道大学芸術文化学部紀要』第3号、尾道大学芸術文化学部、14頁、2004年。doi:10.18899/gei.03.02 
  3. ^ 平出鏗二郎『敵討』文昌閣、1909年、127-128頁。doi:10.11501/768796 
  4. ^ 陶器全集刊行会『陶器大辭典』 1巻、寶雲舎、1935年、190-191頁。doi:10.11501/1115001