慶月院

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慶月院(けいげついん、慶長3年(1598年)- 寛文11年(1671年))は江戸時代前期の女性。伊達政宗の庶子で原田宗輔の母。名は津多(つた)。

生涯[編集]

母の香の前(お種殿)は元は豊臣秀吉の愛妾で、諸説あるが秀吉から伊達政宗に下賜され、慶長3年(1598年)に慶月院(津多)、慶長5年(1600年)に亘理宗根(又治郎)を産み、のちに伊達家重臣・茂庭綱元の側室となった。

慶月院は仙台藩の重臣で柴田郡船岡城主・原田宗資に嫁ぎ、宗輔と娘2人をもうけた。

寛文11年(1671年)、江戸幕府大老酒井忠清邸において、子・原田宗輔が刃傷沙汰を起こして討たれた(寛文事件、伊達騒動)。事件後、原田家の男子は養子に出された者や乳幼児全て切腹、斬首の死罪で一家断絶となった。女子もお預けの身となる厳しい処罰が下され、慶月院も亘理伊達家伊達基実に預けられた。息子の罪で名門原田家が断絶したことを嘆き、舌を噛み切って自害しようとしたが、老齢から噛み切れず、絶食して五十数日後、同年7月に亘理伊達家の屋敷にて失意のうちに享年74で亡くなった。

墓は亘理伊達家の菩提寺である大雄寺住職の隠居寺陽林庵の一隅に、墓碑の代わりに大きな石が置かれているだけである。現在の墓の場所は宮城県亘理郡亘理町長瀞(ながとろ)字夜討坂にある。

参考文献[編集]