小山善元
小山 善元(こやま ぜんげん、1827年(文政10年) - 1869年(明治2年))は、越後長岡藩の藩医。通称は良運。同藩抜擢家老の河井継之助の藩政改革のブレーンの一人といわれている。号は撫松・小天。家系については小山觀翁を参照のこと。
概要
[編集]中間組(軽輩歩卒)から鍼灸師(針医)に転じた家系に生まれる。父の通称は良英。
良運の史料学的初見は安政6年(1859年)ごろに成立とみられる同藩安政分限に130石として見える。蘭学を志して江戸・大坂(適塾)・長崎(精得館)を遊学して長岡藩の蘭方医となる。
石高については、出典記載のない著述の中に160石としているものもあるが、一次史料からは確認できない。
医術のほか江戸では、幕府儒官の古賀謹一郎の私塾に入塾した。久敬舎にいたころ、小山良運や長岡家臣の花輪馨之進、同・三間市之進、同・川島鋭次郎、同・河井継之助等と藩政について日夜激論を交わした。彼らは周囲から、水を漏らさぬほど結束力が固いという意味で「桶党」と呼ばれていた(出典、「峠」司馬遼太郎)。
小説「峠」や、「河井継之助伝」(今泉鐸次郎著)には、小山良運は河井継之助の幼馴染みで、藩政改革推進の協力者、親友などとして、著述されている。
小山良運書状
[編集]三島古狂に宛てた書状で、新潟県長岡市立中央図書館に貴重資料に指定されている。慶応4年7月のものとみられる。
書状の内容は、「三島が小山共にいる庄翁に託した子供が7月8日に無事に着いたことを知らせ、早期進撃の願いを伝えている」(引用元、長岡市立中央図書館発行パンフレット)。
晩年・葬地
[編集]長岡士族総名順(明治2年成立)には、小山良運の名はなく、惣領の小山正太郎が、上司100石として藩庁に出仕している。 小山良運は、長岡藩が北越戦争敗戦後に、領内石瀬に住し、そのまま没した。遺骸は榮涼寺に葬られたが、のちに小山家の墓は真浄寺(東京都文京区向丘)に改葬された。