尉遅熾繁

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天左大皇后
北周の皇后
在位 580年3月 - 5月

全名 尉遅熾繁
出生 566年
死去 595年(30歳没)
配偶者 宇文温(西陽公)
  宣帝
父親 尉遅順
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尉遅 熾繁(うっち しはん[1]566年 - 595年)は、中国北周宣帝皇后のひとり。尉遅迥の孫娘。本貫代郡

経歴[編集]

尉遅順の娘として生まれた。はじめ杞国公宇文亮の子の西陽公宇文温にとついだ。宗婦として入朝したさいに、宣帝に手籠めにされて[1]寵愛を受けた。宇文亮が叛乱を計画し、宇文温が処刑されると、熾繁は宮中に入り、長貴妃となった。580年3月、天左大皇后に立てられた。5月、宣帝が死去すると、出家して尼となり、華首と改名した。595年、30歳で死去した。

なお、同じく尉遅迥の孫娘として、謀反人の親族であるため後宮の奴婢となり、後に隋の文帝に寵愛された女性がおり、同一の人物である可能性が指摘されている[1]。この女性は独孤皇后に殺害された[1]

伝記資料[編集]

  • 周書』巻九 列伝第一 皇后
  • 北史』巻十四 列伝第二 后妃下

出典[編集]

  1. ^ a b c d 平田陽一郎『隋―「流星王朝」の光芒』中央公論新社、2023年。155-156頁