宮井陸郎
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宮井 陸郎(みやい りくろう、1940年 〈昭和15年〉3月13日[1] - 2022年〈令和4年〉3月17日[2] )は、日本の映像作家、アーティスト。島根県出身。父は、夏目漱石研究家の宮井一郎[3]。
経歴・人物
[編集]1960年代に「映像芸術の会」[4]に参加するとともに「現象野郎」[5]を名乗り「ユニットプロ」を主宰。フーテン[6][7]を集めてアングラ・サイケデリックショー等を催した。拡張映画、環境映画としての映像作品を発表、アンダーグラウンドシーンを牽引する。[要出典]
自身の関心から当時ヌーヴェルヴァーグへ影響を与えていた「シネマ・ヴェリテ」の手法にならい、2台のプロジェクターを使用する代表作「時代精神の現象学」(1967年)などを製作する。[要出典]
大丸ミュージアム(東京、神戸)での「アンディ・ウォホール展」(1974年)[8]の企画などプロデューサーとしても活動した。[要出典]
1976年インドへ渡り瞑想やヨガを学び、インド人グルのバグワン・シュリ・ラジニーシに弟子入りしスワミ・アナンド・シャンタンの名を授かり、帰国後の1979年に東京都西荻窪のアナンドニケタン瞑想センターを設立した。[要出典]また、ラジニーシの絵画を日本でシルクスクリーン版画にする「第1集シグニチャーシリーズ」(全21作品)のプロデュース[9]を牽引。1991年以降、再びインド、ネパール、タイなどに滞在。2008年に帰国。[要出典]
著書・作品
[編集]- 『映像と音でバックするキネディックなエレクトロニクス・エンヴァイラメント』1967年
- 『横尾ちゃん、だーいすき』1969年
- (中西研二との共著)『なんにも、ない。』ヒカルランド、2019年12月
脚注
[編集]- ^ “昨日はたくさんの皆さんからの誕生日のお祝いと 祈りのエネルギーありがとうございました。”. 2022年3月22日閲覧。
- ^ “3月17日早朝にシャンタンは肉体を脱ぎ捨て、光へと還られました。”. 2022年3月22日閲覧。
- ^ 宮井一郎、1967年、[要ページ番号]
- ^ 東京都写真美術館、2012年、(「参加作家プロフィール」)
- ^ 深作光貞、1968年、 p.130
- ^ 宮井陸郎、1970年2月、pp.24 - 25
- ^ 本間健彦、2013年、p.178
- ^ 宮井陸郎他、2009年、p.397(執筆者略歴)
- ^ 阿部敏郎、2010年、[要ページ番号]
参考文献
[編集]- 宮井一郎『漱石の世界』講談社、1967年10月
- 宮井陸郎「新宿・しんじく・シンジク」『新宿プレイマップ』第8号、1970年2月、pp.24 - 25
- 深作光貞『新宿考現学』角川書店、1968年9月
- 宮井陸郎他「『芸術』」の予言!! 60年代ラディカル・カルチュアの軌跡」『「季刊フィルム」コレクション』フィルムアート社、2009年5月
- 阿部敏郎『随(かんながら) 神―意識の扉を開く鍵―』ナチュラルスピリット、2010年5月
- 『映像をめぐる冒険vol.5 記録は可能か。』東京都写真美術館、2012年12月
- 本間健彦『60年代新宿アナザー・ストーリー タウン誌「新宿プレイマップ」極私的フィールド・ノート』社会評論社、2013年6月