大崎詮持
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時代 | 室町時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 応永7年(1400年) |
改名 | 彦三郎(幼名)、詮持、金龍寺殿法英 |
別名 | 義兼 |
官位 | 左衛門佐、左京権大夫、左京大夫 |
幕府 | 室町幕府 奥州探題 |
氏族 | 大崎氏 |
父母 | 父:大崎直持、母:不詳 |
妻 | 正室:葛西詮清の娘(満信の異母姉) |
子 | 満詮(満持)、兼持 |
大崎 詮持(おおさき あきもち)は、南北朝時代から室町時代前期の武将。本姓は源氏で奥州管領斯波家兼の孫。大崎持詮は曾孫にあたる。
奥州管領(奥州探題)大崎直持の嫡子として誕生する。室町幕府第2代将軍足利義詮と父・直持からそれぞれ偏諱を賜り詮持と名乗る(また、別名に義兼(よしかね)と伝わるが、次男の兼持(かねもち)が「兼」の字を使用していることから、後にこの諱(名前)に改名したものと思われる)。
康安元年(1361年)、父の名代として奥州における南朝方攻略の指揮を執る。永和元年/天授元年(1375年)[1]以降嘉慶2年(1388年)まで、左京大夫の名で奥州探題として行動するが、明徳2年(1391年)に幕府内で奥羽両国が鎌倉府の管轄下に入ると鎌倉に住した。このころ鎌倉・瀬ヶ崎に邸宅を置いたため瀬ヶ崎殿と称された。
やがて出家し法英と号するが、応永6年(1399年)に篠川公方足利満直・稲村公方足利満貞を奥州へ派遣した鎌倉府と対立し、伊達政宗と結託するも翌応永7年(1400年)に鎌倉府側の結城満朝に追討され自害した。跡を嫡男の満詮(みつあきら)が継いだ。
脚注
[編集]- ^ 『大日本史料』第6編43冊282頁、「秋田藩採集文書」