大島吉綱

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大島 吉綱(おおしま よしつな、天正16年(1588年) - 明暦3年11月6日1657年12月10日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将槍術家。素槍を用いる大島流槍術(大島古流)の祖[1]横江清元の子。通称は新八、雲平、伴六。外祖父大島光義の養子となる。子に大島常久

生涯[編集]

美濃国岐阜県)出身。大島光義に認められ養子となり、光義の二男である大島光政加治田衆)と共に行動する。

佐藤忠能斎藤利治斎藤利堯の家臣で槍術の達人である湯浅新六弟子入りする。通称である「新八」「伴六」は湯浅新六の弟子としての名[要文献特定詳細情報]。「雲平」は大島光義の一族としての名[要文献特定詳細情報]。その後諸国を廻って槍術を学ぶ。

加藤清正に招聘され、文禄・慶長の役に従軍し、また前田利長に従い大坂冬の陣で活躍した。大番の役職を与えられるも、戦後3度浪人して修行の旅に出た。

のちに柳生宗矩の推挙を受け、紀州藩主・徳川頼宣槍術指南役として仕えた(加藤清正の娘で頼宣の正室となった本浄院との繋がりもある)。

大島流開祖となり、隠居後、安心と号した。明暦3年(1657年)70歳で死去。

脚注[編集]

  1. ^ 『和歌山県史』[要文献特定詳細情報]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]