大内重弘
時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 元応2年3月6日[1](1320年4月15日) |
別名 | 大内介[1] |
諡号 | 山口県山口市大内御堀四丁目6-33 乗福寺 |
戒名 | 乗福寺殿本州大別駕道山浄恵大禅定門[1] |
官位 | 正六位上[1]、周防権介[1] |
幕府 | 鎌倉幕府 六波羅探題評定衆[1] |
氏族 | 多々良姓大内氏 |
父母 | 父:大内弘家 |
兄弟 | 重弘、女子[1]、鷲頭長弘[1]、弘景[1]、弘氏[1]、恵源侍者[1]、春徳丸[1]、矢田盛賢[1] |
子 | 弘幸[1]、女子(波野殿)[1]、弘直[2]、師直[2] |
大内 重弘(おおうち しげひろ)は、周防国の武士。在庁官人大内氏の第22代当主[1]。
生涯
[編集]先代の弘家の子[3]。正安2年(1300年)の父の死で家督を相続した。『大内氏系図』には重弘は六波羅探題の評定衆を務めていたと記されている[4]。
大内氏は周防の在庁官人から鎌倉幕府の御家人となっており、正元年間には六波羅探題傘下で京都の治安維持にあたる「在京人」となっていた[4]。また、在庁の軍事・警察権を独占的に支配していた多々良氏一門の族長的存在として在庁官人の盟主的立場にあった[5]。
重弘が家督を継いだ13世紀末より、東大寺大勧進職の利権化に伴って、東大寺衆徒による周防国衙領支配への介入と暴力化が問題化し、これに在庁官人が対抗する構図が生まれる。重弘も当然それに巻き込まれていく[4]。
正和元年(1312年)以降の大勧進職・国司上人であった心源及び目代として派遣された承元が在庁官人と全面衝突する。心源・承元は国衙領内の在庁官人や他の寺社領を全て収公して国衙領に加える方針であったとみられるが、在庁官人側は反対に東大寺の末寺である阿弥陀寺の所領も含まれていることに着目して大勧進職が同寺の廃絶を企てていると訴えたのである。重弘は六波羅探題での地位を利用して幕府や朝廷に働きかけただけでなく、実玄を中心とする衆徒に賄賂に送って味方につけ心源排除の強訴を行わせた。心源側の衆徒も実玄の配流を求める強訴を起こしたものの在京していた重弘[注釈 1]の働きで失敗に終わり、代わりに一旦収公した阿弥陀寺の寺領を再寄進して事態の収拾を図った。だが、重弘以下在庁官人の抵抗は続き、文保2年(1318年)末までに心源を罷免に追い込んだ[注釈 2]。
元応2年(1320年)3月6日に死去。跡を嫡男の弘幸が継いだ。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 松岡久人 著、岸田裕之編 編『大内氏の研究』清文堂出版、2011年11月。ISBN 9784792409524。 NCID BB07201817。全国書誌番号:22084823。
- 初出 オメガ社編 編「大内氏」『地方別日本の名族』 9 中国編、新人物往来社、1989年。ISBN 9784404015440。 NCID BN03065369。全国書誌番号:89059059。
- §「鎌倉末期周防国衙領支配の動向と大内氏」初出 竹内理三博士還暦記念会編 編『荘園制と武家社会』吉川弘文館、1969年。 NCID BN01873839。全国書誌番号:73003839。
- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション