向井正方

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向井 正方(むかい まさかた、元和7年(1621年) - 延宝2年7月15日1674年8月16日))は、江戸時代前期の旗本向井忠勝の五男[1]。妻は服部冬次の娘。子に向井正盛。通称は左近衛将監。

生涯[編集]

元和7年(1621年)、徳川水軍の将で船手奉行であった向井忠勝の五男として誕生。後妻の子であった。

父の死後、所領のうち相模国三浦郡の一部1000石を与えられて[1]江戸幕府の走水番所の奉行となり、百余名の同心を預けられて江戸湾の警固を担当した。その後、早逝した(改易されたとの説もある)兄たちの跡を受けて、4代将軍徳川家綱の元で、新たに三浦郡で2000石を拝領して船手奉行と、父から続く「将監」の名乗りを受け継いだという。

延宝2年(1674年)死去[2]。墓所は神奈川県横須賀市の竹林山貞昌寺の裏山に設けられた。これは生前に墓所は江戸を見渡せる場所がよいと望んだためで、江戸湾を見下ろす山腹に妻の墓碑と並んで置かれていた。

なお、平成13年(2001年)1月16日、宅地造成に伴い、これら墓碑が移築されることになり、掘り返し工事が行ったところ、地下1メートルほどの場所で、正方と妻が埋葬されたと見られる高さ約120cmほどの大甕が2組発見された。その後の調査で遺骨や遺髪、日本刀と見られる副葬物が内部より発見され、当時の土葬の様子が窺える貴重な資料として注目された。現在、正方夫妻の墓碑は、その後造成された新興住宅街内に敷地を設けられ移築されている。

脚注[編集]

参考文献[編集]