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吉井義次

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吉井義次(よしい よしじ、1888年5月28日 - 1977年2月4日)は、日本植物学者

来歴[編集]

1888年明治21年)5月28日、生まれる。東京帝国大学[1]1911年(明治44年)、井上禧之助らと共に帝国議会に「史蹟及天然記念物保存ニ関スル建議」を提出、採択された[2]

1919年大正8年)、内務省史蹟名勝天然記念物考査員になる[1][3]

1922年(大正11年)、東京帝国大学の講師になり、1926年(大正15年)、欧米へ留学する[1]

1928年昭和3年)、東北帝国大学教授になるも、1950年(昭和25年)退官[1]。教授としての活動中、野外実験所の設置や、八甲田山高山植物実験所の設置を行った[4]。他、機関紙「生態学研究」の発行にも携わる[1]

1953年(昭和28年)、三宅驥一らと協力し、日本生態学会を設立[4]。1960年からは日本生態学会の会長となる[4]

1955年(昭和30年)、岐阜大学大学長になる。大学長選出には1953年(昭和28年)以降、3度もの選出選挙を行ったものの、3回とも頓挫し、仕切り直しの選挙で吉井が無事選ばれ就任できたという形である[5]

1977年(昭和52年)2月4日、死亡[1]

人物[編集]

スポーツを好み、教授時代には学生と共にスポーツを行った。八甲田山高山植物実験所の設置から、八甲田山によく訪れるようになると、八甲田山内の温泉によく入っていた[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 日本人名大辞典+Plus,367日誕生日大事典, 20世紀日本人名事典,デジタル版. “吉井義次(ヨシイ ヨシジ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年7月7日閲覧。
  2. ^ 村串 2005, p. 25.
  3. ^ 村串 2005, p. 181.
  4. ^ a b c d 加藤陸奥雄 (1979). “吉井義次先生を偲ぶ”. 日本生態学会誌 (日本生態学会) (29). 
  5. ^ 廣内 大輔 (2020). “自主審査権獲得後の国立大学長選考(その2):岐阜大学2代学長吉井義次の事例”. 岐阜大学教育推進・学生支援機構年報 (6). 

参考文献[編集]